山本勘助晴幸生誕の地

やまもとかんすけはるゆき せいたんのち (Birthplace of Kansuke Haruyuki Yamamoto)

【Z-AC010】探訪日:2018/3/26

【Z-AC010】山本勘助晴幸生誕の地 愛知県豊橋市賀茂町下鶴1

【MAP】

〔駐車場所〕

【Z-AC010】山本勘助晴幸生誕の地

   武田信玄の名軍師(軍師は江戸時代からの言葉)として知られる山本勘助晴幸の生誕の地とされる。勘助は長年その実在を疑われてきたが、近年「山本勘助」と比定できる「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている。ただ、出生地については三河説と駿河説がある。
 『甲陽軍鑑』などによる三河説では1493(明応2)年あるいは1500(明応9)年、八名郡賀茂村で山本藤七郎の3男として生まれ幼名を源助と名乗ったとされ、近くの本願寺には勘助の父・貞幸,母・安女の墓もある。豊川市牛久保町の長谷寺には勘助の墓も立っている。
 一方、『甲斐国志』による駿河説では駿河国富士郡山本の吉野貞幸と安の3男に生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣・大林勘左衛門の養子に入ったとされる。さらには、駿河富士郡に本拠を構える山本氏が、三河国八名郡賀茂荘へ移住し山本屋敷を構え、その後、山本光幸の3男として山本勘助晴幸が賀茂の地で誕生したという説もある。
 勘助は26歳(または20歳)のときに本国を出て武者修行の旅に出て、兵法,築城術や戦法を極め、のちに甲斐武田家の重臣・板垣信方の推挙により武田家に仕えた。武田信玄のもと数多くの軍功を挙げたが、1561(永禄4)年9月10日の川中島の戦いで上杉謙信に「啄木鳥戦法」を見抜かれ武田信繁(信玄の弟)らとともに討死したとされる。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1493年・1500年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
山本勘助晴幸 **** 山本藤七郎 **** 吉野貞幸 ****
大林勘左衛門 **** 山本光幸 **** 板垣信方 G426
武田信玄 G433 上杉謙信 F458

 

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▲県道499号線沿いの案内板

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