鶴岡八幡宮
つるがおかはちまんぐう (Tsurugaoka-Hachimangu Shrine)
【S-KN001】探訪日:2008/4/30
神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1-31 <📲:0467-22-0315>
【MAP】
〔駐車場所〕
1063(康平6)年8月、河内源氏2代目の源頼義が前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。1081(永保元)年には河内源氏3代目の源義家が修復を加えた。
1180(治承4)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った源頼朝は宮を現在の地である小林郷北山に遷した。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。1191(建久2)年の社殿焼損を機に、上宮(本宮)と下宮(若宮)の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。1208(承元2)年には神宮寺が創建された。
1219(建保7)年1月27日、源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁が源実朝を殺害した。公暁は階段脇の大銀杏の木に隠れて待ち伏せし(真偽は不明)源実朝を襲ったとされ、「隠れ銀杏」の別名がある。この大銀杏は2010(平成22)年3月10日に強風のために根元から倒れてしまった。
鎌倉幕府衰退後は一時衰退する。戦国時代には1526(大永6)年に里見義豊,実堯と北条氏綱の間の合戦(鶴岡八幡宮の戦い)で社殿が焼失したが、1540(天文9)年に北条氏綱が再建を果たす。江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門,護摩堂,輪蔵,神楽殿,愛染堂,六角堂,観音堂,法華堂,弁天堂などを建築し、徳川家光の治世に薬師堂,鐘楼,楼門なども建てられた。
1870(明治3)年、大教宣布がなされると、鶴岡八幡宮に多宝大塔などの仏堂は破壊され、一部を除き仏像,仏具,什宝,経典なども破壊・焼却処分されるか散佚した。
大石段上にある本宮は1828(文政11)年に徳川家斉が再建した流権現造で、国の重要文化財に指定されている。石段下にある舞殿は「下拝殿」ともいう。
また、境内入口には北条政子が掘らせたと伝える「源平池」がある。左右2つに分かれ、源氏池には島が3つ、平家池には島が4つ浮かび、それぞれ産(三)と死(四)を表すという。源氏池と平家池を繋ぐ水路には石造の橋が架けられ「太鼓橋」と称される。創建当時は木造で朱塗りだったことから「赤橋」と呼ばれた。北条氏の庶流・赤橋家の苗字はこの橋の名称に由来する。
【史跡規模】 |
【指 定】国指定史跡(1967年4月24日指定):鶴岡八幡宮境内 |
関連時代 | 平安時代:中期 | 平安時代:後期 | 鎌倉時代 | 戦国時代 | 江戸時代:中期 | 明治時代 |
関連年号 | 1063年・1081年 | 1180年 |
1191年・1208年 1219年 |
1526年 |
1828年 | 1870年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
源 頼義 | G201 | 源 義家 | G201 | 源 頼朝 | G202 |
源 公暁 | G202 | 源 実朝 | G202 | 里見義豊 | G318 |
里見実堯 | G318 | 北条氏綱 | H145 | 徳川家斉 | TG05 |
北条政子 | H171 |
大銀杏は探訪(2008年)の2年後に強風で根元から倒れてしまった。その後、再生への努力が実を結んで1ヶ月後には若芽が確認されたという。
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▲舞殿
▲舞殿
▲大銀杏
▲若宮
▲大石段
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▲末社武内社(左の小殿)と本宮(左)
▲本宮