父・正治とともに徳川家康に仕え、小田原征伐に従軍し、関東で封地300石を給い、慶長4年(1599年)に父が没し封地合わせて600石を領する。関ヶ原の戦いに従軍ののちに大番組頭となる。大坂の陣両陣に従軍し、河内国の地理に詳しいことから道案内を務めたり、事前に野武士の大坂城入城を阻止したりした。夏の陣では、水野勝成隊に属して戦功をあげ、関東より甲斐庄氏の出自の地の河内国錦部郡2000石と半ば放棄されていた烏帽子形城を賜い、旧知600石は収公される。だが後に烏帽子形城は廃城とされる。元和3年(1617年)に四天王寺の造営奉行を務める。また、烏帽子形城の東にある烏帽子形八幡神社が荒廃していたのを嘆き、四天王寺修築の余材で改修したとされ、元和8年(1622年)8月に竣工した。天領13000石を預かった時期もあった。 |
普請奉行を務めたのち、慶安5年(1651年)6月、長崎奉行に就任する。 明暦2年(1656年)冬、著者の沢野忠庵が記したローマ字の状態であった「乾坤弁説」の翻訳を西吉兵衛(西玄甫)と向井玄升に、さらに向井玄升には弁説を行うことを指示した。 明暦3年(1657年)に、肥前国大村藩領内での大規模な禁教違反事件「郡崩れ」を相役の黒川正直と共に担当し、厳正に処分した。万治2年(1659年)外国船の見張りの重要性から、農民などに見張らせていたが、新たに遠見役の公儀役人を新設した。翌年、在職中に江戸にて没する。 『大猷院殿御実紀付録』によると、長崎奉行に就任した時、将軍徳川家光の御前に召され、「わが国が、もし外寇によって、いささかでも領土が掠められるようなことがあれば日本の恥辱であるぞ」と、その責任の重大さを家光自ら彼に説き「さらば長崎奉行の職は大事なれば、よく心ゆるびなく、おごそかに慎むべし」と、言い含められたという。
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