安芸竹原の紺屋を営む富商・頼惟清の長子として生まれる。母仲子(道工氏)は春水が幼少の頃死去する。惟清は教育熱心な父親であったので、春水は4歳から5歳頃より京坂の学者平賀中南や塩谷鳳洲に就いて学問に勤しむ。19歳のとき病を得て大坂にて医師を探すうちにそのまま留まり、片山北海に入門し経学・詩文を学ぶ。また同じ頃、趙陶斎に就き書と篆刻を学ぶ。明和元年(1764年)、師の北海を盟主に混沌詩社を創立されこれに加わる。詩豪と呼ばれるほど才能が開花した。大坂の文人墨客と交流したが、特に7歳年上の葛子琴と深い友情で結ばれている。 安永2年(1773年)大坂江戸堀北に私塾青山社を開く。 翌年に広島藩7代藩主浅野重晟に藩儒として招聘され、一家は安芸に移る。藩内に学問所(現修道中学校・修道高等学校)を創立すると天明3年(1783年)江戸勤番となり、春水は単身で赴任し世継ぎの教育係を務めている。天明5年(1785年)、自らの信ずる朱子学をもって藩の学制を統一した。その後、友人である古賀精里,尾藤二洲,柴野栗山と語り合い、元来は古文辞派であった彼らを見事に朱子学に転向させてしまう。この三人は後に寛政の三博士と称される。寛政9年(1797年)に松平定信が老中となると三博士らと働きかけて朱子学を幕府正学とすることに成功する。また林家の私塾を官学化し昌平坂学問所とした。いわゆる寛政異学の禁にはこのような背景があった。その後も隠然とした影響力を持ちつづけ寛政12年(1800年)には昌平坂学問所に召されて自らも書の講義を行っている。この寛政異学の禁は多くの学者から徹底批判され、定信の退陣を早める一因にもなった。 長らく江戸に赴任していたが、安芸では寛政8年(1796年)次男大二郎が病没し、寛政12年(1800年)には長男山陽が藩を出奔するという大事件を起す。やむを得ず座敷牢に閉じ込めるが、4年後に山陽を廃嫡し、弟春風の子景譲を養嗣子として迎えている。享和3年(1803年)に任を解かれ帰国する。文化10年(1813年)、長年の功績により家禄300石を給せられる。文化12年(1815年)養子景譲が病死。翌年、春水死去。享年71。広島市南区比治山にある安養院(現・多聞院)に葬られる。孫の聿庵が家督を継いだ。 春水は生前一冊の著書も著さなかったが、没後13年目の文政11年(1828年)に山陽の編集によって『春水遺稿』が刊行された。出版費用は実弟の杏坪が藩主に願い出て補助を受けた。主に春水の漢詩を年代順に掲載している。別録に交友録的な回想記である『在津紀事』と『師友志』が掲載されているが、当時の大坂で活躍した文人の人間関係を伝える貴重な資料となっている。 大正4年(1915年)、従四位を追贈された。
|
山陽は江戸堀北で誕生。天明元年(1781年)12月、父が広島藩の学問所創設にあたり儒学者に登用されたため転居し、城下の袋町で育った。父と同じく幼少時より詩文の才があり、また歴史に深い興味を示した。天明8年(1788年)、広島藩学問所に入学。その後春水が江戸在勤となったため学問所教官を務めていた叔父の頼杏坪に学び、寛政9年(1797年)には江戸に遊学し、父の学友尾藤二洲に師事した。帰国後の寛政12年(1800年)9月、突如脱藩を企て上洛するも、追跡してきた杏坪によって京都で発見され、広島へ連れ戻され廃嫡の上、自宅へ幽閉される。これがかえって山陽を学問に専念させることとなり、3年間は著述に明け暮れた。なお『日本外史』の初稿が完成したのもこの時といわれる。謹慎を解かれたのち、文化2年(1809年)に広島藩学問所の助教に就任。文化6年(1809年)に父の友人であった儒学者の菅茶山より招聘を受け廉塾の都講(塾頭)に就任した。 ところが、その境遇にも満足できず学者としての名声を天下に轟かせたいとの思いから、文化8年(1811年)に京都へ出奔し、洛中に居を構え開塾する。文化13年(1816年)、父が死去するとその遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。文政5年(1822年)上京区三本木に東山を眺望できる屋敷を構え「水西荘」と名付けた。この居宅にて営々と著述を続け、文政9年(1826年)には代表作となる『日本外史』が完成し、文政10年(1827年)には江戸幕府老中松平定信に献上された。文政11年(1828年)には文房を造営し以前の屋敷の名前をとって「山紫水明処」とした。 山陽の結成した「笑社」(後の真社)には、京坂の文人が集まり、一種のサロンを形成した。その主要メンバーは、父とも関係があった木村蒹葭堂と交友した人々の子であることが多く、大阪の儒者篠崎三島の養子小竹、京都の蘭医小石元俊の子の元瑞、大阪の南画家岡田米山人の子半江、京都の浦上玉堂の子春琴、岡山の武元登々庵が挙げられる。さらに僧雲華、仙台出身で長崎帰りの文人画家菅井梅関、尾張出身の南画家中林竹洞、やや年長の先輩格として陶工の青木木米、幕末の三筆として名高い貫名菘翁、そして遠く九州から文人画家田能村竹田も加わり、彼らは盛んに詩文書画を制作した。 また、その後も文筆業にたずさわり『日本政記』『通議』などの完成を急いだが、天保年間に入った51歳ごろから健康を害し喀血を見るなどした。容態が悪化する中でも著作に専念したが、天保3年(1832年)に死去。享年53。京都円山公園・長楽寺に葬られた。
|
京都三本木に誕生した。父・山陽をはじめ、1840年からは大坂の儒学者・後藤松陰や篠崎小竹らに学んだ。1843年からは江戸で儒学を学んだが、徳川将軍家の墓所である寛永寺の石灯籠を破壊する事件を起こして退学処分とされた。この時には尊皇運動に感化されており、江戸幕府の朝廷に対する軽視政策に異議を唱えて行なった行動といわれている。その後、東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と親友となった。1849年には京都に戻り、再び勤王の志士として活動する。しばらくは母の注意もあって自重していたが、やがて母が死去すると家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。 1853年にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航して一気に政情不安や尊皇攘夷運動が高まりの兆しを見せ始め、1858年には将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と徳川慶喜擁立を求めて朝廷に働きかけたため、大老の井伊直弼から梅田雲浜,梁川星巌,池内大学と並ぶ危険人物の一人と見なされた。梁川星巌がコレラで亡くなる際、三樹三郎がその最期を看取ったという。同年、幕府による安政の大獄で捕らえられて、江戸の阿部家福山藩邸において幽閉される。父・山陽の愛弟子である福山藩主の侍講・石川和助は、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行ったが、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく江戸伝馬町牢屋敷で橋本左内や飯泉喜内らとともに斬首された。享年35。墓は京都円山公園の裏にある長楽寺と松蔭神社にある。
|
母・淳のお腹の中にいる時に山陽が出奔したため、藩法により生まれてすぐ母は離縁され生家に戻され、以降祖父母にあたる頼春水・梅颸夫婦の子どもとして育てられる。春水の嫡子は山陽が出奔したため廃嫡されたことにより、養嗣として春水の弟である頼春風の子・頼元鼎(景譲)を迎えていた。山陽自身は捕らえられ連れ戻され春水の屋敷の離れに幽閉され、文化2年(1805年)謹慎が解かれたのち、文化8年(1811年)京都を拠点としている。聿庵は春水の屋敷で育てられ、幼き頃より春水や景譲、そして春水と春風の弟にあたる頼杏坪から薫陶を受ける。文化12年(1815年)景譲が病死、そのため聿庵が春水の嫡子となった。 文化13年(1816年)、聿庵16歳の時に春水が死去、広島頼家の家督を継ぐ。藩命により後見人に春風が着き、以降聿庵は主に杏坪から学ぶことになる。文政元年(1818年)、藩校学問所に出仕。 天保2年(1831年)5月、聿庵31歳の時に江戸詰となる。江戸に向かう最中、京都で父・山陽と対面を果たした。天保3年(1832年)広島藩奥詰次席。同年9月、父・山陽死去。天保4年(1833年)江戸詰の聿庵は藩主浅野斉粛に山陽の著書『日本外史』を献上する。江戸詰は天保4年まで。また藩主斉粛の嫡子である浅野慶熾の侍講となる。 広島に戻ると、春水に倣い家塾「天日堂」を起こす。天保12年(1841年)広島藩奥詰。また山陽死去により生活が苦しくなった腹違いの弟の頼支峰と頼三樹三郎の面倒を見ている。ただ山陽死去後、聿庵は度々酒に溺れるようになっていき、親友の坂井虎山に窘められるなど周囲が心配するほどとなった。嘉永2年(1849年)2月藩主斉粛の前で、藩の重臣今中大学を罵倒したことにより謹慎処分を受け、嘉永3年(1850年)3月聿庵48歳の時に隠居、家督を嗣子・頼誠軒に譲った。 安政3年(1856年)病気により死去。享年56。墓所は広島市南区比治山にある多聞院。著作に「聿庵詩稿」など。
|
春風は竹原で生まれる。父・惟清は息子たちに勉学に励ませ、春風もこれを努める。春風14歳の時に兄・春水に従い大阪で学ぶ。のち弟・杏坪もこれに加わる。尾藤二洲とは親交を温めた。春風は儒学を、そして医術を古林見宜から学ぶ。 安永2年(1773年)父・惟清が倒れたことから春風だけ竹原に戻り、頼家の宗家いわゆる竹原頼家の家督を継ぐ。そして医業を開業している。安永9年(1780年)には塩田経営を始めている。天明元年(1781年)邸宅「春風館」を建て、紺屋は叔父の頼惟宣(伝五郎)に譲った。その一方で竹原の文化向上にも貢献し、寛政5年(1793年)に郷塾「竹原書院」の開講に春水と共に参加し、講師となった。この竹原書院は現在市立竹原書院図書館として存続している。 頼家の3兄弟はいずれも学問,詩文,書と優れのち「三頼」と称される。篠崎三島は頼兄弟を「春水は方(四角)、春風は円、杏坪は三角」と漢詩に譬えて、後の世人は春風はその詩風だけではなく円満の人であったと評している。兄弟の2人がのちに広島藩儒となり順調に出世していったのに対し、春風は竹原にとどまり悠々自適な生活を過ごした。3兄弟とも菅茶山との交流があったが、管は春風の自由な生き様に一番共感していた。 兄・春水の子・山陽が出奔した際には、春風も追手の一人となった。のち山陽は連れ戻され幽閉された際に『日本外史』の構想を練ることになるが、この題名は春風の案である。また山陽を廃嫡したため春水の嗣子がいなくなったことから、春風の長子・頼元鼎(景譲)を春水の養嗣とした。春風の相続者は、長女・唯子に婿養子として花山文台の子を迎え養嗣とした。これが頼小園である。また元鼎、春水と相次いで死去し春水の孫・頼聿庵が広島頼家の家督を継いだ際には、春風は藩命によりその後見役となり七人扶持を与えられ御医師格(藩医)となっている。 文政8年(1825年)竹原春風館で死去。享年73。墓所は竹原照蓮寺。著書に『春風館詩鈔』『適肥』『芳山小記』など。
|
杏坪は7歳のとき母に死別し、父と兄に育てられた。家は商家で、父は学問好きであった。25歳のときに大坂に出て儒学を学び、その後兄・春水と共に江戸にも出て服部栗斎に師事した。30歳で広島藩学問所の儒官に迎えられ、天明5年(1785年)広島藩主の子浅野斉賢の教育係となった。 春水,春風,杏坪の頼三兄弟は、とみに文才に恵まれた儒者であり、多くの優れた漢詩を残すなど、レベルの高い共通点を持ち合わせると共に、個性を生かしてそれぞれの分野で後世に名を残した。杏坪が二人の兄と異なるのは、地方行政官として歩んだ足跡である。しかも、普通の人なら隠居する50代半ばを過ぎてから、郡代官や三次町奉行として藩政の一端に加わった。 杏坪が三次郡,恵蘇郡の代官になったのは文化10年(1813年)10月で、58歳のときだった。その後、三上郡,奴可郡を加えた備後国北部4郡(現在の三次市・庄原市・双三郡・比婆郡)の代官を歴任、備北各地の村々を歩いて農民の声を聞き、政治に反映しようと努めた。当時、備北地方は百姓一揆伝統の地と言われた。飢餓に備えて柿を植えたり、神社に老人を集めて敬老会を催したなどの話はよく知られている。 文政11年(1828年)、杏坪は三次町奉行に任じられ、4月、家族をあげて三次に転居してきた。このときすでに73歳で、三次に在任したのはわずか2年であった。文政12年(1829年)2月には京都から甥の頼山陽が三次にある杏坪の役宅運甓居を訪れ、漢詩を残している。 文政13年(1830年)閏3月、杏坪は三次町奉行を辞して広島に引き上げた。天保5年(1834年)79歳で病没、比治山の安養院(現在の多聞院)に葬られた。 『芸備孝義伝』や『芸藩通志』などの藩史編纂に携わったほか、「原古編」「春草堂詩鈔」などの著作がある。 明治42年(1909年)、従四位を追贈された。
|