<神皇系氏族>天孫系

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久松道定 久松俊勝

 菅原道真が大宰府に左遷されたとき、長孫の久松麿(後の雅規)は、尾張国知多郡阿久居へ配流され、この地の人は彼を久松殿と呼んだ。のちの南北朝時代に京都から雅規の後裔が阿久居に下向し、この地の領主となった。そして、室町期に雅規14世孫の道定が足利将軍家に仕えて阿古居の地7,000貫を所領として認められ、先祖久松麿にちなみ久松氏を称したという。飯高郡阿波曽村へ移り、100年ほど当地にいた。
 久松氏は尾張守護斯波家に配されたとされ、室町期の同氏は代々斯波氏に属する知多郡の国人領主であった。 

 尾張国守護斯波氏に仕える国人領主であった久松氏は、戦国時代には大野城を本拠とする佐治氏と争っていた。しかし俊勝は天文15年(1546年)佐治氏の一族より長子・信俊の妻を迎えることでこれと和睦した。
  桶狭間の戦い後に松平元康に与す。永禄5年(1562年)今川氏の鵜殿長照が守る三河国宝飯郡西郡の上ノ郷城を攻略した。西郡の領主となった俊勝は、信俊に阿久比を譲り、上ノ郷城には於大との間に生まれた次子・康元を置いた。この時期の発給文書には「長家」の名が見え、「俊勝」への改名はこれ以降と考えられる。また、松平元康は永禄6年(1563年)に「家康」と改名するが、家康の"家"の字は継父の久松長家より一字を得たものとする説もある。
  後に織田信長から謀反の疑いをかけられた水野信元(俊勝には義兄にあたる)が家康を頼ってくる。家康は同盟を重視して信元を自害させる決断をするが、義弟である俊勝が信元を助けるのを恐れて俊勝に事情を明かさずに信元召喚の使者を命じた。後に事情を知って激怒した俊勝はそのまま西郡城に隠退してしまった。晩年には三河一向一揆で追放された一向宗寺院の三河復帰に尽力したという。墓所は阿久比町の洞雲院および蒲郡市の安楽寺。 

多劫姫

 天文22年(1553年)、尾張阿久居城にて久松俊勝と於大の娘として生まれる。初め松平忠正に嫁ぎ、家広を産んだ。しかし、天正5年(1577年)に夫が死去したため、その弟・忠吉に再嫁した。忠吉との間に二子(松平信吉,松平忠頼)を儲けたが、天正10年(1582年)に夫が死去し、多劫姫は再び寡婦となった。
 天正12年(1584年)、信濃国高遠城主・保科正直に再々嫁し、保科正貞,北条氏重,大涼院(黒田長政継室),清元院(安部信盛室),貞松院(小出吉英室),高運院(加藤明成室)の2男4女を儲けた。
 元和年(1618年)、死去した。