<皇孫系氏族>垂仁天皇後裔

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小槻広房 小槻季継

 仁安元年(1166年)に右大史となり、左大史・小槻隆職と相並ぶ。まもなく左大史に昇進するが、翌仁安2年(1167年)従五位下に叙爵して官史を辞任して弁官局を去り、嘉応元年(1169年)正月に史巡により尾張介に任ぜられた。広房は官史を去った後も官中文書を手元に保有し続け、安元3年(1177年)に発生した安元の大火では、被災して多数の文書を焼失した隆職を横目に、広房の文書は難を逃れたという。また、元暦元年(1184年)後鳥羽天皇の即位に際して、広房は式場となった太政官を修造し成功の見返りとして日向守に任ぜられている。
 文治元年(1185年)12月に源義経による頼朝追討宣旨を巡って頼朝から糾弾された隆職が高階泰経らと共に失脚すると、代わって広房が左大史に任ぜられ大夫史の地位に就く。この処分に対して、隆職は官厨家便補保や官文書の引き渡しを拒むなど激しい抵抗を示したことから、翌文治2年(1186年)2月に広房は隆職の抵抗について内々に源頼朝に訴えている。しかし、建久2年(1191年)に後白河法皇の意向によって隆職が大夫史への復任を許されると、広房の扱いが問題となり、結局広房は大夫史を退き、翌建久3年(1192年)河内守に遷任された。
 建久9年(1198年)隆職が危篤となると、その後任の左大史を巡って隆職の子・国宗と争うがこれに敗れる。以後、国宗は没するまで22年間その地位を占め、国宗の死によって広房の孫・季継が左大史に任じられるまで、広房の系統に左大史の官職が戻ることは無かった。

 貞応2年(1223年)壬生流の小槻国宗が没するが、その子息・惟任が幼少であったことから季継が大夫史を継ぎ、建久2年(1191年)以来約30ぶりに大宮流に大夫史の官職を取り戻す。大夫史に就くと、以後没するまで21年間にわたってその地位を保ち、家司として務めた摂政・九条道家と結んで、それまで壬生官務家に押されがちであった大宮官務家の基礎を固める。また、国宗から受け継いだ所領である官厨家便補保(太政官厨家領)を朝廷の宣旨を得て子息の朝治に譲与するなど大宮家のみで独占しようとしたとされ、大宮家と壬生家とが相論を重ねるきっかけを作った。この間に、嘉禄元年(1225年)正五位上に至るとともに、修理東大寺大仏長官のほか、備前権介,紀伊守,筑前守などの地方官を兼任している。また、摂政・九条道家や摂政・二条教実など九条家の政所家司を務めた。
 季継の時代には弁官は諸事を行う前に必ず前もって、大夫史を世襲する小槻氏に対して前例を問う方式が確立されていたらしく、嘉禄2年(1226年)に火災で官文殿が焼失した際、小槻氏の私文庫である官文庫をもって官文殿に代用することとし、官文殿自体の再建はなされなったという。
 寛元2年(1244年)9月27日卒去。享年53。子息の秀氏が若年であったため、官務(左大史上首)の地位は壬生流の小槻淳方が継いだ。

小槻季氏 小槻冬直

 後嵯峨朝の寛元2年(1244年)父の左大史・小槻季継が没するが、秀氏は若年であったため官務(左大史上首)の地位を継ぐことができず、壬生流の小槻淳方がこれを継ぐ。この間に、秀氏は大蔵権少輔,算博士,主計頭などを務めた。
 文永元年(1264年)秀氏は左大史に任ぜられ、初めて壬生流(有家)と大宮流(秀氏)の両方が大夫史として合い並ぶ。弘安3年(1280年)有家が没すが、のちに大宮流の顕衡が左大史に任ぜられ、再び両流が大夫史として並ぶ。弘安9年(1286年)12月に園城寺との争いに伴って秀氏と顕衡がともに解任され、秀氏の従兄弟にあたる順任が大夫史となるが、翌弘安10年(1287年)2月には秀氏は顕衡ともに大夫史に還任している。また、秀氏は従四位下に叙せられたのちも大夫史への留任が認められた最初の人物で四位大史と呼ばれた。 
 正応5年(1292年)正月26日卒去。子息の益材が秀氏に先んじて没していたために壬生流の顕衡が単独で大夫史を占め、正安元年(1299年)になって秀氏の孫の伊綱が大夫史に任ぜられている。

 乾元2年(1303年)右少史に任官し、のち記録所勾当,大蔵少輔を務める。この間の正和5年(1316年)父の左大史・小槻伊綱が没するが、冬直はただちに大夫史の地位を継ぐことはできず、壬生流の小槻千宣が官務(左大史上首)として単独で大夫史となる。元応元年(1319年)になってから冬直は左大史に任ぜられて大夫史になると、元享2年(1322年)千宣から譲られて官務・氏長者に就任した。その後、約14年に亘って官務を務める傍ら、修理東大寺大仏長官・大炊頭も兼ね、曾祖父の秀氏以来の四位大史となって、建武元年(1334年)頃に正四位下にまで至る。また、建武の新政では雑訴決断所の奉行も務めた。
 建武3年(1336年)出家して重円を号するが、冬直の子息である朝名と景兼は早世しており、末子の康景も幼少であったことから、弟の清澄が強引に跡目を継いだという。

小槻長興 小槻伊治

 永享4年(1431年)に太政官の史の筆頭である左大史に任命されたが、官務の地位は対立する壬生官務家が握り、上首である長興が任命されなかった。これに反発して、長興は室町幕府に直訴し、その結果文安2年(1445年)2月に小槻氏長者・官務に任ぜられる。だが、壬生家の壬生晨照がこれに強く反発し、11月には氏長者・官務の地位を奪い返される。以後、大宮長興と壬生晨照の対立は久しく続くことになる。長興は近衛家,一条家に家司として仕え、室町幕府との関係を維持することで壬生家に対抗しようとしている。
 その後、宝徳元年(1449年)に官務が壬生晨照から大宮長興に移り、寛正6年(1465年)には再び大宮長興から壬生晨照に移った。
 しかし、応仁の乱によって、土御門大宮にあった大宮家の官文庫が焼失し、長興が宇治平等院に疎開させていた古文書なども軍兵によって紛失させられた。官務の職掌は朝廷の儀式・公事の遂行とそのために必要な先例の調査が主であり、先例の出典と言える官文庫・古文書の喪失は大宮家にとっては致命的な打撃であった。
 文明10年(1478年)長興は治部卿に任じられ、小槻氏で初めて八省卿となった。文明18年(1486年)に出家して寿官と名乗り、号も文決軒と改めて、養子・時元を補佐した。だが、応仁の乱後も辛うじて自己の官文庫を維持した壬生官務家との格差は広がる一方であった。86歳で死去した。
 有職故実に詳しく、日記『長興宿禰記』が今日まで伝わっているが、多くの文物は応仁の乱で失われた。長興の死後、大宮官務家は急激に衰退していく。

 永正17年(1520年)に父の大宮時元が没すると、小槻氏宗家の地位を争う大宮,壬生官務家間の対立を深めた。
 時元の死の4日後に壬生于恒が官務に任ぜられると、伊治は朝廷の信任が厚い管領細川高国に朝廷への口利きを依頼した。さらに大永元年(1521年)に足利義晴の将軍宣下が決まったことで、儀式にどちらが関わるかとの問題が絡んで対立は深刻化したが、伊治の敗北に終わる。伊治は大永2年(1522年)に算博士に転じた。
 その後も後柏原天皇崩御や細川高国の桂川原の戦いでの敗戦などで両家の争いが続いた。仲裁に入った三条西実隆は清原宣賢らとともに両家の和解案を作成。大永7年(1527年)9月12日に官務を3年間の任期として3年目の2月に交替を行うこと(ただし、片方の当主が20歳未満の場合はこの限りではない)、官務の職とともに小槻氏の氏長者の地位と渡領の権利を移動することなどを柱とした和解案に合意。だが、実際には大宮,壬生両家とも経済的な困窮から地方に下るなどして官務の職務を遂行できず、相手方に官務職が移る事態が頻発した。伊治は大永6年(1526年)から享禄2年(1529年)にかけて越前の朝倉孝景を頼り、天文元年(1531年)2月には美濃の土岐氏、同年7月には周防国の守護大名・大内義隆のもとへも出かけている。なお、この間の享禄2年(1529年)に伊治は『御成敗式目』の版本を刊行(日本における法律書の出版の嚆矢とされる)、この年には和解案に定められた3年を待たずに官務に復帰している。
 だが、壬生家との争いや経済的困窮から苦境に陥ったために、伊治は天文15年(1546年)には官務在官中にも関わらず、周防・大内義隆を頼って下向した。周防においては伊治は文書作成を含む有職故実の教授にあたり、天文15年(1546年)から天文17年(1548年)にかけて大内義隆が行った四書五経の輪読の際には、同行していた清原業賢とともに義隆の質問に答えている。また、伊治の娘・おさいが義隆の寵愛を受けて側室となり、大内氏の跡継ぎとなる義尊を儲けた。だが、天文21年(1551年)8月28日に主君・義隆に対して挙兵した陶隆房の軍に襲撃されて、湯田畷で兵士によって殺害された(大寧寺の変)。享年56。
 伊治の息子・国雄も成人することなく没したらしく、更にその後も大宮家の家督を継がせる猶子・惟右を迎えるものの、これも消息不明となっている。このため、元亀3年12月9日(1573年1月12日)正親町天皇は壬生家の当主・朝芳に対して大宮家継承を命じる女房奉書を下した。ここに大宮官務家は絶家し、以後壬生家が明治維新まで官務を世襲することとなった。