<神皇系氏族>地祇系

MW02:大神忍人  大三輪大友主 ― 大神忍人 ― 大神清房 MW03:大神清房

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大神勝房 大神元房

 大神神社の神主。官職は左近将監。南朝に属す。
後醍醐天皇が吉野へ行宮した時、勤王のため官軍として参じる。しばしば戦功があり延元4年(1339年)に正五位下に叙任される。神主の職を息子の元房に譲り吉野行宮に宿衛する。後に出家し西阿入道と名乗った。
大神神社の近隣にある戒重城を築城した大和国の武将である戒重西阿との関連性が指摘される。西阿は戒重、開住、玉井だけでなく三輪の姓も名乗っており、勝房と同一人物とも考えられる。この"西阿"は1341年に細川顕氏に討たれたとも、1348年の四条畷の戦いで戦死したとも、もしくは戦死していなかったとも記録に残っている謎の人物である。いずれにしても信房と同じく、南朝側の武将であったことは確かである。

 しばしば官軍として北朝討伐を統率した戦功があるとされている。元中9年(1392年)の南北朝講和の時、後亀山天皇に従って入京した。応永32年6月19日(1425年6月4日)に87歳で死去。粟殿の極楽寺に葬られた。法名は光阿。
大神信房

 大神神社の神主の次男として生まれた神官であるが、延元3年/建武5年(1338年)の北畠顕家の上洛軍に従軍したとも考えられる。天王寺の戦いや石津の戦いにも従軍していた可能性が指摘される。同年5月22日に阿倍野で戦没したという記録に鑑みた経緯である。顕家の軍は和泉国の坂本郷・観音寺城を拠点にして、高師直と細川顕氏ら率いる北朝・室町幕府軍らと戦った。顕家は石津の戦いで戦死したが、なぜか信房は同日に約10km離れた阿倍野で戦死している。
 信房は武将として自立した軍を指揮したのか、それとも神職としての顕家の軍師となったかは不明だが、大神氏は父・勝房を筆頭に後醍醐天皇が吉野に南朝を開いた頃から南朝に属していること、顕家と同じ日に共に現在の大阪で戦死したこと、子孫が北畠氏に仕えていることから、信房の従軍は必然的あるといえる。また、当時の石津および堺浦は漁港を中心とした南朝の経済的基盤の地であったが、室町幕府により商売を停止させられ、奈良に魚介類が流通しなくなり春日神社なども大打撃を受けた事実がある。石津の合戦は、いわば南北軍の堺争奪戦でもあった。このことから信房が顕家に従軍したのは単に南朝側だったからだけでなく、奈良の大神神社にとっては重要な経済拠点である堺を奪還する目的があったとの説も存在する。