能見松平家

MT13:松平重勝  松平親氏 ― 松平光親 ― 松平重勝 ― 松平英親 MT14:松平英親

リンク
松平英親 松平 精

 高田藩初代藩主となる松平重直の長男。当時の重直は出羽上山藩主松平重忠の養嗣子で、翌年に家督相続するが、その直後に一度摂津三田藩へ転封し、その後6年で高田藩(当初は竜王藩)へ転封している。

 

 寛永20年(1643年)正月に家督を継ぐ。正保2年(1645年)、高田から杵築3万2000石に移封された。藩政を確立するために25か条の法令をはじめ、寛文2年(1662年)からは検地を実施して新田開発などに尽力した。明暦2年(1656年)の日根野吉明改易時の府内城受け取り役も務めている。
 元禄5年(1692年)12月4日、長男の重栄に家督を譲って隠居し、宝永3年(1706年)3月10日に82歳で死去した。江戸の正燈寺の開基。

 学習院高等科を経て、1934年に東京帝国大学船舶工学科卒業。造船所の実習では肉体労働が多く、三菱航空機の工場を見学すると学問的であるため、航空機の道を選択する。海軍航空技術廠の技術者募集に申し込み、海軍に奉職。1935年から1936年にかけて陸軍に徴兵された後、海軍に復帰。振動問題を手掛けるよう命じられ、機械振動学を一から勉強して専門家となる。

 試験飛行中の零式艦上戦闘機の空中分解事故の原因が、後尾翼昇降舵のフラッターにあることを模型実験により突き止めた。山名正夫とともに原因調査のリーダーシップを取り、マスバランスが先に疲労破壊し、その状態で急降下試験をしたため、フラッターが発見したと結論付けた。また、零式艦上戦闘機の別の空中分解事故の原因解析の際、10分の1スケールの主翼模型で風洞実験を行い、主翼のねじれ振動が起きることを突き止めた。その他、雷電の振動問題の解決にも携わった。
 戦後は鉄道技術研究所において、その当時多かった車両の脱線事故は台車の蛇行動であるという持論を展開した。飛行機と同様に鉄道も高速状態になると自ら振動する性質があると考え、模型実験で実証して蛇行動を広く知らしめた。また、昭和20年代に自動車業界に技術提供し、国産初のダンパーを完成。
 一時期、公職追放の危機にあった。新幹線の開発プロジェクトにおいて、「高速車両の運動班」の班長を担当し、新幹線用台車の設計・実用化に貢献。新幹線の空気ばねの主要開発を行ったことで有名である。新幹線0系電車の先端のデザインを設計した三木忠直、自動列車制御装置 (ATC)を作った河邊一とは鉄道技術研究所で知り合った。