<神皇系氏族>地祇系

KA12:賀茂宗憲  鴨  蝦夷 ― 賀茂宗憲 ― 賀茂在継 KA13:賀茂在継

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賀茂在方 勘解由小路在富
 本来、賀茂氏は安倍氏の師匠筋であり、平安時代にあっては安倍氏より優位にあった。室町時代に賀茂在方の子在貞,在長(在豊,在成とも)が勘解由小路を称した。

 永正9年(1512年)に暦博士、永正11年(1514年)に兼任して陰陽頭に任命された。以後、左馬頭や宮内卿なども兼務しながら、陰陽頭を大永2年(1522年)、暦博士を天文2年(1533年)まで務めた。また、大永2年より天文6年(1537年)まで宮内卿を務め、陰陽師としてだけでなく後奈良天皇の側近としても活躍した。この功績によって天文5年(1536年)には従二位、更に天文20年(1551年)にはこの家系では初めて正二位に昇進した。なお、この時期に北条氏綱を頼って相模国に下ったものの、天文11年(1542年)に所領の若狭国名田庄に退いて陰陽頭としての職務を行わない土御門有脩に代わって陰陽頭の職務を代行するために呼び戻された。
 恐らく天文8年(1539年)頃、弟・在康の子である在種を養子としたが、天文20年(1551年)3月14日、在種は在富によって横死させられた。天文22年(1553年)9月22日には、在富の妻が山科言継の三男・鶴松丸(のちの薄諸光)を養子にしたいと要請したが、断られている。但し、その前後には山科言継との関係は良好であり、親密な関係があった。
 唯一の息子である賀茂在昌は、永禄2年(1559年)、ガスパル・ヴィレラらの上洛の折にキリシタンとなり、永禄7年(1564年)には妻子を連れて京を出奔して、西洋天文学を学ぶため豊後府内に留学した。在富は後継者が不在のまま、翌永禄8年(1565年)8月10日死去。
 没後には嗣子がなかなか決まらず、安倍氏嫡流土御門家から土御門有春の子である在高を、さらにその没後は続いて土御門有脩の子である土御門久脩(勘解由小路在綱として改姓改名)を養子に入れて辛うじて存続したものの衰退。キリシタンとなって豊後府内に留学していた在富の息子賀茂在昌が安土桃山時代天正5年(1577年)に帰洛して陰陽頭を嗣いだことによって一旦は相続問題解消したと思われたが、江戸時代初期、賀茂在昌の息子と思われる勘解由小路在信の代に至って消息不明となり断絶した。
 在富の息子と孫に当たると思われる賀茂在昌、勘解由小路在信については不明な点が多く、在富の代で賀茂氏勘解由小路家は実質絶家したものと見なされることが多い。

賀茂在昌 勘解由小路在綱

 文武天皇5年(701年)遣唐中位(判官)に任ぜられ、翌大宝2年(702年)渡唐する。慶雲4年(707年)3月に遣唐副使・巨勢邑治らと共に帰国、同年5月に渡唐の功労により綿,麻布,鍬,籾を賜与され、8月には従七位上から一挙に七階昇進して従五位下に叙爵された。
 和銅元年(708年)下総守に任ぜられるが、間もなく下総守は佐伯百足に交替し、吉備麻呂は玄蕃頭に転任する。のち左少弁を経て、和銅6年(713年)二階昇進して正五位下となる。
 霊亀3年(717年)河内守として地方官に遷ると、養老年間初頭に播磨守、養老3年(719年)には按察使に任ぜられて備前国・美作国・備中国・淡路国の4ヶ国を管轄するなど、元正朝では地方官を歴任し、この間の養老2年(718年)に従四位下に至っている。

 天平勝宝元年(749年)孝謙天皇の即位に伴い従五位下に叙爵。孝謙朝では従五位上・右兵衛率に叙任される一方、聖武上皇の宮中にもら仕え恩寵を受けていた。天平勝宝8歳(756年)聖武上皇が崩御すると、左衛士督・坂上犬養と共に悲しみのあまり山陵(佐保山南陵)に仕えることを望む。孝謙天皇はこれを許すと共に賞賛し、犬養は正四位上に、虫麻呂は三階昇進して従四位下に叙せられている。