聖徳太子Wikipedia参照 |
『日本書紀』皇極紀によると、推古天皇が病死後にその後継問題が発生し、蘇我氏の庶流・境部摩理勢らは山背大兄王を擁立する。その結果、蘇我蝦夷の擁立する田村皇子らと皇位を争うが、蝦夷から山背大兄王に対して自重を求める意見をされたこともあって皇位は田村皇子が継承することとなり、629年に即位する(舒明天皇)。 蘇我蝦夷が山背大兄王を避けた理由については、山背大兄王がまだ若く未熟であった、あるいは山背大兄王の人望を嫌ったという説と、推古天皇に続いて蘇我氏系の皇族である山背大兄王を擁立することで反蘇我氏勢力との対立が深まることを避けたかったためという説がある。 だが、蘇我氏の実権が蝦夷の息子の蘇我入鹿に移ると、入鹿はより蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子の擁立を企て、その中継ぎとして皇極天皇を擁立した。このため、王と蘇我氏の関係は決定的に悪化する。 643年12月20日、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多,土師猪手,大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。山背大兄王の奴三成と舎人10数人が矢で土師娑婆連を殺し、馬の骨を残し一族と三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫)、舎人田目連とその娘,莵田諸石,伊勢阿倍堅経らを連れ斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡した。家臣の三輪文屋君は再起を進言するが、山背大兄王は百姓に危害が及ぶと戦闘を望まず、 結局、生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる。蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒した。なお墓は不詳であるが、法輪寺近郊にある「岡の原」という小山が山背大兄王墓であるという伝承がある。 当時の天皇は長男による世襲制度ではなく、皇族から天皇に相応しい人物が選ばれていた。その基準は人格のほか年齢、代々の天皇や諸侯との血縁関係であった。これは天皇家の権力が絶対ではなく、あくまでも諸豪族を束ねる長という立場であったためである。また、推古天皇の後継者争いには敏達天皇系(田村皇子)と用明天皇系(山背大兄王)の対立があったとも言われている。 更に山背大兄王の暗殺には、多数の皇族が加わっていたと言われて、山背大兄王を疎んじていた蘇我入鹿と、皇位継承における優位を画策する諸皇族の思惑が一致し起きた事件である。当時の後継者選びの基準が上宮王家一族を悲劇へと追い込んだともいえる。
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