<光孝平氏>

K321:光孝天皇  光孝天皇 ― 是忠親王 ― 忠望王 ― 平 偕行/中興 H903:平 偕行/中興

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平 偕行 平 中興

 神祇伯・忠望王または山城守・興我王の子とされる。文章生から左衛門尉を経て、村上朝の天暦8年(954年)勘解由次官に任官する。天徳2年(958年)右衛門権佐に任ぜられた後、康保2年(965年)右少弁に遷ると、のち左少弁と村上朝末に弁官を務めた。
 その他、時期は不明ながら山城守も務め、位階は従四位下に至る。

 神祇伯・忠望王の養子。昌泰元年(898年】 醍醐天皇の六位蔵人となる。昌泰3年(900年)養父・忠望王の譲りにより文章生に補せられ、少内記次いで大内記に任ぜられる。
 延喜4年(904年)従五位下・遠江守に叙任されると、延喜10年(910年)讃岐守、延喜15年(915年)近江守と地方官を歴任し、同年には治国の功労により従五位上に昇叙されている。延喜19年(919年)左衛門権佐に任ぜられ京官に復すが、延喜22年(922年)美濃権守として再び地方官に転じた。延長8年(930年)卒去。
 勅撰歌人として、『古今和歌集』『後撰和歌集』に2首ずつ、計4首の和歌作品が採録されている。また、讃岐守時代に大江朝綱の漢詩(「賦置酒如淮」)に感銘して、中興は自分の娘を娶らせたとされる。

平 元規

 寛平9年(897年)醍醐天皇の即位後まもなく非蔵人として昇殿を聴され、右馬権少允に任ぜられた。その後は、右馬権大允・左兵衛少尉と武官を歴任し、延喜6年(906年)には六位蔵人兼左衛門大尉に任ぜられる。
 延喜8年(908年)従五位下に叙爵するが、ほどなく卒去。
 藤原後蔭が「唐物の使い」で大宰府に下向する際に、送別の場で詠んだ和歌が『古今和歌集』に1首が採録されている。