延喜11年(911年)に宇多上皇の主催で亭子院で開かれた酒合戦に酒豪として招聘され参加。大量に飲んで門外に倒れた。右兵衛佐を経て、延喜19年(919年)五位蔵人、翌延喜20年(920年)左近衛少将に任ぜられ醍醐天皇の身近に仕えた。 延長6年(928年)従四位下に叙されて蔵人兼少将を辞任したのち、右馬頭を経て、右中弁兼内蔵頭となる。 延長8年(930年)6月26日に清涼殿に落雷があり、顔面に直撃の重傷を負い、修明門から宮外に運び出されるも、ほどなく卒去(清涼殿落雷事件)。この事件で、共に落雷の直撃を受け薨じた大納言・藤原清貫は昌泰の変に関与したため、菅原道真の怨霊により清貫は報いを受けたと人々は噂したが、一方の希世と道真との関係や、希世の昌泰の変への関与は不明である。 勅撰歌人であり、『後撰和歌集』『玉葉和歌集』に1首ずつ和歌作品が採録されている。
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美濃権大掾,治部少丞,式部少/大丞を経て、醍醐朝後期の延長2年(924年)従五位下に叙爵する。同年に遠江守に任ぜられると、延長7年(929年)備中介、承平4年(934年)美濃権守と、醍醐朝後期から朱雀朝前期にかけて地方官を歴任し、延長7年(929年)治国の功労により従五位上に叙せられている。 承平8年(938年)左衛門権佐として京官に復すと、天慶2年(939年)正五位下、天慶5年(942年)従四位下と朱雀朝後半は順調に昇進する。のち、春宮権亮として春宮・成明親王に仕えたほか、修理大夫も務めた。 天慶9年(946年)成明親王が即位(村上天皇)すると、正四位下・蔵人頭兼内蔵頭に抜擢され、天暦2年(948年)参議に任ぜられ公卿に列した。議政官として修理大夫を兼帯するが、天暦4年(950年)大宰大弐に任ぜられて大宰府に赴任する。 天暦7年(953年)12月18日に任所にて卒去。享年64。
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