<桓武平氏>高望王系

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梶原景茂 梶原景義

 源頼朝に従い源平合戦(治承・寿永の乱)で戦功を挙げる。文治5年(1189年)の奥州合戦でも戦功を挙げ、建久元年(1190年)には左兵衛尉に任じられた。
 正治元年(1199年)、御家人66名による梶原景時糾弾の連判状によって鎌倉を追われ、相模国の梶原館へと戻る。翌正治2年(1200年)正月、一族郎党を引き連れ京へと登ろうとするが、途中駿河国にて在地武士団の襲撃を受け、駿河国狐崎で吉川友兼と一騎討ちの末、討ち取られた。
 梶原景茂の子孫は、子の景永が陸奥国の早馬神社に下向し(既に景時の兄・梶原景實が開いていた)、室町時代には近畿、さらに阿波国,讃岐国へと広がり、一部は尾張国に住み、織田信長の家臣となった。
 文治2年(1186年)、鎌倉に呼び寄せられていた静御前の館へ工藤祐経,千葉常秀,八田知重,藤原邦通らと訪れ、舞を楽しんだ。しかし酔っ払って静御前を口説き、苦情が出たという逸話が『吾妻鏡』に残っている。

 尾張国の住民で織田信長の家臣。羽黒城主。尾張梶原氏は梶原景時の後裔で、代々羽黒を領していたという。改名前に「梶原平八郎」を称した団忠正は尾張梶原氏一門と見られるが詳しい関係は不明である。
 永禄12年(1569年)8月、大河内城の戦いに参陣。元亀元年(1570年)8月には野田城,福島城の戦いに従軍し、同年9月からの志賀の陣にも参戦。天正2年(1574年)7月より行われた3度目の長島一向一揆討伐では織田信忠の指揮下に入って市江口より攻め込んだ(第三次長島侵攻)。 同年9月29日には一揆軍の捨て身の特攻に相対して迎え撃ち、奮闘するも負傷したという。
 天正10年(1582年)2月には信忠に従って甲州征伐に出陣。同月16日の鳥居峠の戦いでは木曾義昌に加勢として駆けつけ勝利に貢献した。
 同年6月2日の本能寺の変で明智光秀と戦って討死したというが『信長公記』などでは戦死者の名簿で確認が取れない。しかしながら、変後に羽黒城は廃城となっていて小牧・長久手の戦いの時点では荒廃しており、景久の名もこれ以後の記録には一切登場しなくなる。