兄の尚房が早世(「遊所吉原にて横死」と記録される)したため、寛文6年(1666年)に嫡子となる。延宝元年(1673年)11月11日に父が死去したため、延宝2年(1674年)1月10日に家督を継いだ。延宝7年(1679年)11月1日には奏者番に任じられた。 延宝8年(1680年)5月に第4代将軍・徳川家綱が死去すると、6月26日に芝の増上寺で法会が行われ、尚長はその奉行に任じられた。ところが法要の最中、志摩鳥羽藩主で方丈口勤番を務めていた内藤忠勝に刺殺された。享年27。殺害された理由は忠勝の狂気のためと『徳川実紀』などの史料には記されているが、忠勝との不和が原因とも、逆に尚長が忠勝に遺恨をもって切りかかったが返り討ちにあったという説もある。 尚長には嗣子がなく、また殺害された経緯から改易に処された。しかし後に弟の永井直圓に1万石が与えられ、大和新庄藩主として大名永井宗家を再興している。 尚長は学問を好んだことから、文人藩主と称された。
|
父の跡は兄の尚長が家督を継いだが、その尚長が延宝8年(1680年)6月26日に志摩鳥羽藩主・内藤忠勝に殺されたため、永井氏は改易となった。しかし同年8月7日、弟の直圓が1万石で大和新庄藩主として家名を再興することを許された。ただし、この頃はまだ桑山一尹が藩主として存続していたため、恐らくは名義だけの領主だったものと思われる。 元禄14年(1701年)12月18日、能登守に叙任。宝永7年(1710年)11月3日、病気を理由に家督を次男の直亮に譲って隠居し、元文元年(1736年)5月8日に死去した。享年66。
|