後三条源氏

K326:後三条天皇  後三条天皇 ― 源 有仁 G921:源 有仁

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源 有仁 田代信綱

 平安時代後期の公家。皇族時代は有仁王と称する。
 始め白河院の養子となり皇嗣と目されたが、院の孫鳥羽天皇に顕仁親王(後の崇徳天皇)が生まれたことから元永2年(1119年)源姓を賜り臣籍降下。保延2年(1136年)、官位は従一位左大臣に至り、花園離宮を賜った事から花園左大臣と呼ばれた。久安3年(1147年)2月3日に出家し、成覚と号した。その後間もなくして没した。
 詩歌・管絃・書に秀で、また儀式や故実を集大成し、儀式書『春玉秘抄』『秋玉秘抄』を著している。また、洒落好みであり、公家の化粧・鉄漿・引眉の風習は、この人より始まると言われる。
 日記『花園左府記』は80巻にも及ぶものとされる。

 田代冠者と号す。母方の祖父工藤茂光に養育され,伊豆で源頼朝に仕える。石橋山の戦で源頼朝に従い、三草山,一の谷,屋島の合戦では源義経の麾下。しかし文治1(1185)年頼朝は西海にあった信綱に対し、義経に従うべからずとの書状を遣わした。
 伊豆国狩野荘田代郷(静岡県田方郡修善寺町)を本貫とする鎌倉幕府の御家人であるが、1224年(元仁1)田代浄心(信綱)が承久の乱の勲功によって和泉国大鳥郷(大阪府堺市鳳)地頭職を拝領した。信綱以降は本貫の田代郷は義綱系が相伝し,大鳥郷は清綱系が相伝している。大鳥郷は摂関家大番舎人の存在するところで,13世紀の中ごろには室町院領の荘園となっている。