長久2年(1041年)元服と同時に一世源氏待遇の蔭位により従四位上に直叙され、翌長久3年(1042年)侍従に任ぜられる。長久4年(1043年)正四位下に叙せられた。 寛徳2年(1045年)後冷泉天皇の即位に伴って尊仁親王(のち後三条天皇)が東宮に立てられると東宮殿上を許される。寛徳3年(1046年)2月に備中権守を兼ねると、同年11月の大嘗会において主基国司により従三位に昇叙されて公卿に列した。 永承5年(1050年)には参議に任ぜられるが、引き続き侍従を務めるとともに、讃岐権守・伊予権守などの地方官も兼帯した。この間の永承6年(1051年)正月に父・小一条院(敦明親王)が没しその喪に服すが、同年6月に正三位に陞叙され、天喜5年(1057年)従二位に至る。 康平7年(1064年)5月15日薨去。享年39。
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園城寺の明尊の下で出家、頼豪から密教を学び、覚円から灌頂を受けた。1070年(延久2年)頃より大峰山,葛城山,熊野などで修行し、修験者として知られた。 1116年(永久4年)、2代熊野三山検校に補任。熊野と大峰を結ぶ峰入りの作法としての順峰(熊野本宮から大峰・吉野へ抜ける行程)選定をおこなったという。1107年(嘉承2年)5月法眼に叙せられる。また、同年12月鳥羽天皇即位に伴いその護持僧となり、加持祈祷によりしばしば霊験を現し公家の崇敬も篤かった。のちに、園城寺の長吏に任じられ、1123年(保安4年)には天台座主となったが、延暦寺と園城寺との対立により6日で辞任している。1125年(天治2年)大僧正。崇福寺,円勝寺,天王寺(四天王寺)など諸寺の別当を歴任する一方、衰退した園城寺を復興した。 なお、鎌倉時代に編纂されたと推定される『寺門高僧記』に収められた行尊の「観音霊所三十三所巡礼記」は西国三十三所巡礼の確かな初見史料として高く評価されている。
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承保元年(1074年)11歳で従五位下に叙爵され、皇太弟・実仁親王の昇殿を聴される。永保3年(1083年)侍従に任ぜられ、次いで昇殿も聴されて白河天皇に接近した。応徳2年(1085年)に実仁親王が薨去しているが、応徳3年(1086年)従五位上に進み、堀河天皇の即位後の寛治元年1月(1088年1月)右兵衛佐に任ぜられた。 寛治5年(1091年)正五位下、寛治8年(1094年)従四位下に進み、院昇殿を聴されて引き続き白河上皇の身辺に仕える。嘉保2年(1095年)に従四位上に進むが、その後しばらくは昇進が停滞した。 元永3年(1120年)に修理権大夫に任官し、保安3年(1122年)に鳥羽天皇の昇殿を聴される。保安4年(1123年)には正四位下・近江介に叙任され、鳥羽天皇の退位後は新帝崇徳天皇の昇殿も聴された。同じ時期に待賢門院藤原璋子の昇殿も聴されて、保延5年(1139年)には女院の御給で従三位に叙せられて76歳で公卿に列した。大蔵卿・越前権守を兼帯。康治2年(1143年)2月16日に出家し、同年12月24日に薨去。享年80。 歌人としても活躍し、家集に『行宗集』がある。源師頼,源顕仲,源師時,源国信,源俊頼らとの交流が知られ、『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集には27首が入る。また、漢詩も作ったという。
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兵衛佐局が内裏に出仕したのは、父の喪が明けた保延5年(1139年)頃と見られる。女房名は養父・行宗のかつての官職である右兵衛権佐に因んで付けられた。 崇徳天皇から寵愛を受けた兵衛佐局が、保延6年(1140年)9月2日、崇徳天皇の第一皇子(重仁親王)を産む。鳥羽上皇は重仁を美福門院の養子に迎え、平忠盛の妻・藤原宗子(池禅尼)が乳母に選ばれた。 永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇は体仁親王(近衛天皇)に譲位して三条西洞院第に移る。聖子は近衛天皇の養育のため内裏に残り、崇徳上皇と同居している兵衛佐局が事実上の正妻とみなされるようになった。重仁親王の後見役となった忠盛は、久安年間に六波羅に池殿を造営した際、崇徳院女房を招いて歓待した。崇徳上皇と兵衛佐局にとって、忠盛は最も頼りにできる人物だった。 久寿2年(1155年)7月23日、病弱だった近衛天皇が17歳で崩御。後継天皇候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。背景には崇徳上皇の院政によって自身が掣肘されることを危惧する美福門院、雅仁の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西の策謀に加えて、重仁と兵衛佐局に対する藤原忠通の敵視も要因の一つとして考えられる。これにより崇徳上皇の院政の望みは断たれた。 翌年の保元の乱で崇徳上皇方は敗北し鳥羽から船で讃岐国へ下った。兵衛佐局は崇徳上皇に付き添って讃岐に赴き、配流生活を共に過ごした。崇徳上皇が崩御すると兵衛佐局は都に戻った。重仁親王もすでに亡く、その後は出家して山科の勧修寺に移り住み、崇徳の菩提を弔う日々を送った。仁和寺の覚性法親王(崇徳上皇の同母弟)が身辺について気を配っていたという。 安元3年(1177年)以降、都で変事や動乱が続発すると、朝廷では保元の乱の怨霊による祟りと恐怖して様々な鎮魂策が行われるようになり、後白河法皇は神祠(崇徳院廟)の建立を命じる院宣を下した。院庁から神祠の御神体について問い合わせを受けた兵衛佐局は、崇徳上皇が年来御持仏としてきた普賢菩薩像と御遺愛の鏡が手元にあり、御愛用の木枕で彫った仏像もあると答えた。遺品の鏡が御神体として納められたという。 元暦2年(1185年)5月1日、源頼朝は兵衛佐局に書状を送ったが、これが兵衛佐局の消息を知る最後の記録となった。没年は不明である。
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