憲定は「をんな(女)しき様」という容貌と記され、また『大鏡』でも「人からこそいとしも思われ給はざり」と記述されるなど、宮廷での人気も存在感も希薄な人物だったとされている。また長和2年(1013年)皇太后藤原彰子から娘の女房出仕を要請された際、自分では決められず義兄弟の藤原実資(姉妹・婉子女王の夫)に相談し、実資から「大愚なり」と酷評された。寛仁元年(1017年)6月2日薨去。 彼の死後、娘は縁者の隆姫女王(藤原頼通室)に引き取られ「対の君」と呼ばれたが、彼女は藤原頼通の愛を受けて通房を産んだ。
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頼定の父・為平親王は冷泉天皇のすぐ下の同母弟でありながら、母の中宮・安子や外祖父の師輔を早くに失い、高明が外戚として勢威を振るうのを恐れた叔父たちによって、幼い弟・守平親王(のちの円融天皇)に飛び越され、失意の日々を送った不運の皇族である。その子息は一斉に臣籍降下、頼定は次男である。 正暦4年(993年)11月15日昇殿。中関白家と親しく、長徳2年(996年)4月24日、内大臣伊周,中納言隆家の左遷に連座して勅勘を蒙る。間もなく許されたと見られ、長徳4年(998年)10月22日、右近衛中将に任ず。 寛弘6年(1009年)3月20日参議、長和5年(1016年)11月14日、正三位に至る。のちに勘解由長官・左兵衛督を兼帯し、寛仁4年(1020年)4月22日、検非違使別当を兼ねたが、同年6月8日、病によって出家し、同11日、44歳で薨じた。 頼定は『枕草子』では「宮の中将」「源中将」と呼ばれ、「かたちよき公達」の代表に挙げられる。三条天皇東宮時代の女御・綏子に通じて懐妊させ、疑わしく思った東宮が綏子の異母兄道長に命じて検証させたとか、一条天皇没後、孤閨を託った承香殿女御元子と密かに情を交わし、激怒した元子の父右大臣顕光が手ずから娘の髪を切り勘当したけれども、元子は夜蔭にまぎれて頼定のもとに走り、遂に二女を儲けた話が諸書に見える。彼が風流な貴公子として一世を風靡したのは確実であろう。 その一方で、後世の碩学として名高い大江匡房は、著書の中で、頼定を雲客(殿上人)の項目の4人の中の1人に挙げており、このことから頼定は公卿として相応の評価を受けていたことが伺える。
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