醍醐源氏

K322:醍醐天皇  醍醐天皇 ― 源 正清/泰清/守清 G793:源 正清/泰清/守清

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源 正清 源 高雅

 円融朝の天禄4年(973年)左近衛中将に任ぜられる。天延2年(974年)円融天皇の中宮・藤原媓子の中宮権亮を兼ねると、貞元2年(977年)には蔵人頭に任ぜられるが、永観2年(984年)円融天皇の譲位に伴って蔵人頭を辞任する。   
 寛和2年(986年)一条天皇の即位に伴って、居貞親王(のち三条天皇)が春宮に立てられると春宮亮を兼ねる。永祚2年(990年)17年に亘って務めた左近衛中将を解かれ、摂津守に転じた。

 一条朝にて但馬守,甲斐守,讃岐守,近江守と地方官を歴任し、位階は従四位下に至った。妻(藤原親明の娘)が藤原道長室の源倫子の乳母子であり、高雅は道長の家司も務めた。長保2年(1000年)道長の娘である藤原彰子が立后すると中宮権大進(のち中宮亮)に任ぜられている。
 寛弘6年(1009年)8月27日に官職を辞して翌日出家。まもなく卒去したとみられる。没年は不明だが寛弘9年(1012年)の時点では「故高雅」と書かれていたことからこの年には没していた。
 子女達に恵まれ娘の1人の公子は道長次男の藤原頼宗の妾妻となって基貞を産み、懿子は道長の6男の藤原長家の後妻となり藤原定家の曽祖父である忠家等を生んでいる。

源 行任 源 雅亮

 一条朝末の寛弘7年(1010年)能登守に任ぜられる。三条朝では皇太后・藤原彰子に皇太后宮大進として仕え、長和5年(1016年)正五位下に叙せられた。
 後一条朝に入ると越後守に任ぜられるが、寛仁3年(1019年)五節の舞(豊明節会に行われる少女の舞い)に舞姫を出すように命ぜられるが、これを辞退したため釐務を停められる。治安3年(1023年)備中守任じられると、今度はその秋に受領として五節の舞に舞姫を出している。
 典型的な富裕受領で、富小路西・上東門大路より北にある故入道大相国(藤原道長か)の邸宅を手に入れて居住し、世上この邸宅は御倉町と称されていたが、近江守在職中の長元4年(1031年)7月7日にこの邸宅を焼失した。また、時期は不明ながら但馬守も務めるなど受領を歴任し、位階は正四位下に至る。

 始め大舎人助を務める。仁平3年(1153年)に従五位下に叙爵。同年皇后宮少進に叙任され、8月29日には雅亮が藤原頼長の室・藤原幸子の乳母肥前の養子であった縁から、頼長とその妻の家司に補任。また頼長より鳥羽院判代官に推挙されるなど頼長に接近。
 仁安2年(1152年)、頼長の子・師長が藤原顕頼の娘と婚姻した際には書の使いを勤仕した。久寿2年(1155年)10月の大嘗会の御禊では女御の車の前駈を務める。頼長が戦死した保元の乱(1156年)以降は幸子の実家である徳大寺家の家人となり徳大寺実定に仕えている。皇后宮少進を経て仁安4年(1169年)伊賀守に任ぜられ、斎宮惇子内親王の家司も務めた。
 父・雅職に続いて雅亮も装束家として活躍し、師長の束帯の着付けや頼長家にて五節の童女の着付けなどに奉仕した。また幸子の父・徳大寺実能より総角の結い方を学び、頼長の子・隆長の総角を結っている。承安年間には雅亮以外に総角を結える者は少なかったという。装束家として著した有職書『満佐須計装束抄』は平安時代後期の宮中の行事に展開する調度・装束の慣例が記されており、この時代の調度・服装を研究する上で重要な史料となっている。
 平清盛の長男・重盛と次男・基盛とは親戚同士(重盛達の外祖父高階基章と雅亮の父の雅職が従兄弟)でもある縁か雅亮の娘の職子は安徳天皇即位の際に掌侍に任命されている。