G789:真野定時 | 源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木行定 ― 真野定時 ― 間宮信冬 | G790:間宮信冬 | ● |
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間宮信冬 | 間宮信盛 |
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船木時信の5代の孫・信冬が間宮新左衛門尉を名乗ったのが間宮氏の始まりである。 |
戦国時代の永正年間(1504~20)の初め、小田原を本拠に勢力を武蔵に伸ばし始めた北条早雲は、関東管領上杉氏の軍と戦いつつ、永正7年、現在の横浜市域に侵入した。そして、同年7月、管領上杉憲房の家臣であった上田蔵人政盛を味方につけ、援軍を送って上杉氏に対して謀叛を起こさせた。 |
間宮直元 | 間宮信高 |
北条氏直の死後、徳川家康に仕え、間宮本家として下総国(印旛郡,千葉郡内)へ移り千石の知行を受ける。これは直元の叔母にあたるお久の方(普照院)が家康の側室になっており、一族再興を働きかけた結果であった。彼女の働きかけにより甥の直元と高則のほか、叔父の氷収沢間宮家綱信(および子の正重・重信・頼次)は500石、弟の元重も旗本として登用され、幕末まで存続する。 |
同族で甲斐武田氏の家臣であった間宮繁高の名跡を継いだという。最初北条氏政、後に武田勝頼に仕え、主に水軍を率いて活躍した。天正10年(1582年)織田氏・徳川氏による甲州征伐の際には徳川方につき、徳川軍の糧道を確保するという武功を立てた。戦後1200石を与えられて家臣に取り立てられ、船大将のひとりとなり駿河や甲斐に駐在した。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは同僚の小浜景隆とともに戸田忠次の配下として出陣し、伊勢国で九鬼氏と戦って武功があった。同年の蟹江城合戦では岡部長盛らとともに水軍を率いて戦ったが、増援として蟹江城入城を試みる九鬼嘉隆の水軍と交戦中に戦死した。 |
間宮倫宗(林蔵) | 間宮信安 |
樺太(サハリン)が島であることを確認し間宮海峡を発見した。近藤重蔵,平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。 |
戦国時代、武蔵国久良岐郡杉田村の住人であった真野新左衛門信安は、間宮信高に属して水軍の将として武功を立て、間宮の名字を許された。 |
杉田長安 | 杉田忠安 |
北条家滅亡後に杉田村に蟄居し、名字を杉田に改めたという。その後、娘婿の五兵衛忠元とともに橘樹郡菅生に移って帰農した。 |
杉田八左衛門忠安は、父の実家が間宮家に仕えていた縁で藤井松平家に推挙され、300石取りの物頭を務めたという。武家としての杉田家は忠安の長男が継ぐが、忠安の二男が医家杉田家の始祖となる。 |
杉田甫仙 | 杉田玄白 |
蘭方医・オランダ語通詞の西玄甫に医学を学び、医家としての杉田家を創始して初代杉田甫仙となった。初代甫仙は藤井松平家に藩医として召し抱えられたが、元禄6年(1693年)に松平忠之が乱心したために藤井松平家は減封され、そのあおりで初代甫仙は暇を出された。推挙を受けて新発田藩溝口家に200石で仕えているが、藩主とそりが合わず、ほどなく致仕している。元禄15年(1702年)、小浜藩酒井家に臨時雇いとなり、翌年に正式の藩医として酒井忠囿に仕えることとなった。これにより小浜藩医杉田家が誕生した。 |
江戸牛込の小浜藩酒井家の下屋敷に生まれるが、玄白の生母は出産の際に死去している。下屋敷で育ち、元文5年(1740年)には一家で小浜へ移り、父の玄甫が江戸詰めを命じられる延享2年(1745年)まで過ごす。青年期には家業の医学修行を始め、医学は奥医の西玄哲に、漢学は本郷に開塾していた古学派の儒者宮瀬竜門に学ぶ。 |
杉田成卿 | 杉田玄端 |
杉田立卿の子として江戸浜町に生まれる。幼時より学業に優れ、儒学を萩原緑野、蘭書を名倉五三郎などに学ぶ。20歳の時から坪井信道に蘭学を学び、人格的にも深い感化を受けた。1840年に天文台訳員に任命され、1843年に老中・水野忠邦の命でオランダの政治書(国憲)を翻訳したが、水野の失脚によりこの書は日の目を見ないことになった。同じ年に『海上砲術全書』を訳述している。 |
尾張藩医・權頭信珉の子として江戸に生まれた。旧姓は吉野。7歳から藩で習字,漢学,算学を学ぶ。杉田立卿に師事し立卿の猶子となった後、杉田白玄の養子となって杉田家宗家の家督を相続し、医術をよく学ぶ。若狭国小浜藩主の侍医を務めたのちに幕府お抱えの医師となり、戸塚文海と共に勝海舟ら要人奉行の主治医となり、蘭学をもって蕃書調所教授から慶応元年(1865年)に外国奉行支配翻訳御用頭取となる。ここで同僚の福澤諭吉や吉田賢輔,高畠五郎,川本幸民,箕作阮甫を知り、深い親交を結んだ。 |
間宮士信 | |
初名は信民。号は白水。通称は初め総次郎であったが、父間宮公信の死後にその名を継いで庄五郎と名乗った。 |
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