宇多源氏

G783:佐々木行定  源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木行定 ― 浅小井盛実 G785:浅小井盛実

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浅小井長家 深尾清家

 家実の五男とも。長家は佐々木荘の蒲生郡浅小井村に住し、地名をもって氏として浅小井四郎と称した。元暦元年(1184)、伊賀国の平氏の平田家継、富田進士家助らが甲賀郡大原荘に侵入したのに対し、これを討伐に向かった佐々木秀義に従い武功を立てたことが伝えられている。

 長家の跡は嫡子清長が継ぎ、治承年代の初め、伊勢・近江・美濃三国の国境に位置する三国岳に立て籠った盗賊を退治するため、三国岳の東、北伊勢郡員部郡の深尾谷村に住した。そして深尾谷の深尾をとって姓を深尾と改め、以後、子孫は深尾氏を名乗った。とはいえ、当時源氏に対する平家の追究が厳しかったことから、それから逃れるために深尾谷に身を隠したところ、たまたま盗賊の横行があり、清長は一族郎党と力を合わせてこれを征伐したとも伝える。

深尾元範 深尾元忠

 六角高頼に従い、元範は深尾加賀守と名乗り、高頼の命を受けて浅小井城を築きその城主に命じられた。そして、六角家中で権勢を誇った永原越前守の娘を娶り、おおいに勢威を有することになった。その跡を継いだ元秀も加賀守に任じ、浅小井城主として深尾氏の全盛時代を築いた。

 兄の秀長が当時佐々木四天王の一人と称された伊庭城主の伊庭下総守資長が反乱を起したとき、これに味方し、結局、浅小井城を捨てて蓄電、行方知れずとなってしまった。元忠は兄の謀叛のあと、浅小井城を召し上げられ、禄を失い、侘びしく暮らすことになった。その後、一族の取りなしを得て、わずかに禄を与えられて深尾家を再興することができた。
 その後、佐々木六角氏に仕えたが、昔日の面影はすでになかった。そして、六角氏が織田信長の前に敗れ去ると、主家を失った深尾氏は郷士となって浅小井村に住したという。