宇多源氏

K322:宇多天皇  宇多天皇 ― 源 寛信/重信 G722:源 寛信/重信

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源 重信 源 致方

 六条左大臣と号した。承平7年(937年)従四位下に叙位。侍従,左馬頭,美作守,美濃権守,左近衛中将,左兵衛督,修理大夫などを歴任し、天徳4年(960年)参議となり、天禄3年(972年)権中納言、天延3年(975年)中納言、貞元3年(973年)大納言、正暦2年(991年)右大臣、正暦5年(994年)左大臣と累進し、この間に冷泉院別当,近江守,播磨守,伊予権守,治部卿,大蔵卿,中宮(藤原媓子)大夫,皇太后宮(昌子内親王)大夫,按察使,東宮(居貞親王、後の三条天皇)傳などを兼帯した。正暦6年(995年)5月8日、正二位左大臣在職時に薨去。享年74。没後、正一位を追贈された。
 村上天皇にその篤実な性格を愛されたという。男女間の「みそかごとは無才」だったが職務には忠実で、修理大夫時代、自宅と内裏への往復には道を変え必ず内裏を左右から見るようにし、「破れたる所あれば修理」させたという。父敦実親王,兄源雅信と共に音楽に堪能で、朗詠・笛・笙に巧みだったという。

 平安時代中期の官人。天延2年(974年)頃に右衛門佐になり、貞元元年(976年)従五位上・右少弁に叙される。貞元2年(977年)蔵人に任じられる。天元3年(980年)従四位下に叙位。天元4年(981年)東大寺俗別当・権左中弁に任命される。永延2年(988年)頃右大弁に昇進。永延3年(989年)3月19日卒去。39歳だった。『拾遺和歌集』に藤原実資との連歌が見える。また『安法法師集』にも「弁の君」の名で致方の和歌が載せられている。日記『致方記』4巻を書いていたらしい。
源 道方 源 経信
 寛和2年(986年)7月22日に従五位下に叙位されてより、侍従・右兵衛佐・少納言を経て弁官になる。この間、宮内卿,蔵人頭,播磨守,勘解由長官などを兼任し、長和元年(1012年)8月左大弁に任じられ、同年12月参議に任じられた。翌年従三位から正三位に進み、寛仁2年(1018年)従二位に昇進する。寛仁4年(1020年)11月権中納言になり、皇太后宮権大夫をも兼ねて「宮の大夫」と呼ばれた。長元2年(1029年)正月大宰権帥を兼ね、赴任後正二位に昇進した。長元6年(1033年)太宰権帥を辞任。長元8年(1035年)10月民部卿に遷任された。長久5年(1044年)9月25日出家し、同日76歳で薨去。藤原氏全盛時代において数少ない源氏の上達部として一条,三条,後一条,後朱雀の4天皇に仕えた。

 平安時代後期の公家・歌人。1062年(康平3年)右中弁となり、以後蔵人頭などを経て、1067年(治暦3年)参議となる。1068年(治暦4年)兼伊予権守、1069年(治暦5年)従三位、東宮権大夫、1070年(延久2年)兼大蔵卿、1071年(延久3年)正三位、1072年(延久4年)左大弁、1073年(延久5年)兼播磨権守、1074年(延久6年)皇后宮権大夫、兼勘解由長官、1075年(承保2年)権中納言、1077年(承保4年)正二位、1081年(承暦5年)兼民部卿、1083年(永保3年)69歳で権大納言に進み、兼皇后宮大夫。1091年(寛治5年)大納言、1094年(寛治8年)大宰権帥に任命され、翌1095年(嘉保2年)現地に下向し、1097年(承徳元年)大宰府で没している。82歳。
 詩歌・管絃に秀で、また有職故実にも詳しかった。1041年(長久2年)の祐子内親王家名所歌合をはじめとして、多くの歌合に参加している。当代一の歌人とされたが、経信をさしおいて藤原通俊が撰集した「後拾遺和歌集」に対して「後拾遺問答」・「難後拾遺」を著してこれを批判した。
 「後拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に入集。家集に「経宣集」、日記に「帥記」がある。

源 経隆 源 基綱
 平安時代中期の官人・歌人。永承2年(1047年)頃、信濃守在任が確認される他、備前守,常陸介などを歴任し正四位下に至った。その後出家した。『後拾遺和歌集』に1首入集。壮年より仏典に親しみ、出家後も貧者に惜しみなく私財を与えたという。生前、2月15日に没することを願ったが、永保元年2月14日、念仏を唱えながら安らかに入滅したという。享年83歳だった。

 平安時代後期の公卿・雅楽家。琵琶の名人。最終官位は正二位権中納言大宰権帥で、永久4年(1116年)12月30日に68歳で薨去。
 父経信の作った琵琶の流派・経信流(桂流)を受け継ぎ、子の源時俊,源信綱と僧良祐に伝えた。また神楽の伝承も父から受けた。嘉承2年(1107年)3月5日鳥羽殿への行幸、天永3年(1112年)3月18日鳥羽天皇御賀後宴などの御遊で琵琶を担当しており、『古今著聞集』にも彼の名が見える。

源 俊頼

 平安時代後期の歌人。1111年(天永2年)従四位上・木工頭で退官。はじめ堀河天皇近習の楽人として活動したが、その後、堀河院歌壇の中心人物として活躍した。多くの歌合に作者・判者として参加し、「堀河院百首」を企画・推進した。1124年(天治元年)白河院の命により「金葉和歌集」を撰集。藤原基俊とともに当時の歌壇の中心的存在であった。歌風としては、革新的な歌を詠むことで知られた。
 「金葉和歌集」以下の勅撰和歌集に入集。歌学書に「俊頼髄脳」、家集に「散木奇歌集」がある。