宇多源氏

K322:宇多天皇  宇多天皇 ― 源 英明/庶明 G721:源 英明/庶明

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源 英明 源 庶明

 平安時代中期の歌人。延長5年(927年)、蔵人頭に至る。父が道真の左遷に遭い出家。それに伴い、幼年時代は不遇であった。16歳で従四位、翌年侍従に叙せられた。醍醐天皇の親任厚く近衛中将を経て蔵人頭となる。
 父の遺言で『慈覚大師伝』を完成した。また、家集『源氏小草』(全五巻)は伝わらず、『扶桑集』などに数十首の作品が残る。

 平安時代の公卿。広幡中納言と呼ばれた。
 延長2年(924年)従四位下に直叙される。侍従,左京大夫,右兵衛督などを歴任し、承平6年(936年)従四位上、天慶4年(941年)12月参議に任ぜられ、天慶8年(945年)正四位下になり左兵衛督・左大弁などを兼官した。天暦5年(951年)従三位権中納言に昇進し、天暦7年(953年)中納言兼左兵衛督。天暦9年(955年)5月20日、53歳で薨去。『後撰和歌集』に4首入集する歌人でもある。なお天慶2年(939年)、彼は父の斉世親王撰の「慈覚大師伝」を天台座主尊意に送っており、広幡院に居住していたらしい。

源 計子

 平安時代中期の女官・歌人。宇多源氏。広幡中納言源庶明女。村上天皇の更衣となり、理子内親王・盛子内親王の母となった。父庶明に因んで広幡御息所と呼ばれた。
村上天皇にその聡明さを愛され、天皇が多くの女御・更衣に対して試みた「あふさかも はてはゆききの せきもゐず たづねてとひこ きなばかへさじ」の歌を、「合わせ薫物少し」の沓冠歌と唯一人読み解いたという逸話が残る(『栄花物語』一)。和歌に優れ、天皇に勧めて源順らに『万葉集』の訓点を施させたとも言われている(『十訓抄』七)。『拾遺和歌集』2首(歌番号810及び1182)や『玉葉和歌集』1首(歌番号1483)が入集するほか、『村上天皇御集』にも天皇との贈答歌が残る。
また天徳4年(960年)3月30日に清涼殿において内裏歌合(天徳歌合)が開かれたが、この時に女房方人を務めた「宰相」という人物が会を盛り上げたと『天徳四年内裏歌合』の記録に残っているが、この宰相という女性は計子を指すとされている。