光孝源氏

K321:光孝天皇  光孝天皇 ― 源 国紀 G717:源 国紀

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源 公忠 源 信明

 平安時代中期の官人・歌人で三十六歌仙の一人。
 醍醐天皇,朱雀天皇の下で蔵人をつとめ、その後従四位下右大弁に至った。歌合や屏風歌で活躍し、紀貫之からは辞世の歌を贈られた。香道や鷹狩に優れていた。「大和物語」「大鏡」に逸話が残されている。
 「後拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に入集。家集に「公忠集」がある。

 平安時代中期の官人・歌人。父と同じく三十六歌仙の一人に選ばれている。
 承平7年(937年)正月蔵人に補任。天慶2年(939年)若狭守任ぜられた。その後信濃守,備後守,越後守,陸奥守などの受領を歴任し、安和元年(968年)従四位下に至った。天禄元年、61歳で卒去。宇多上皇が崩御したときの哀傷歌を始めとして、村上天皇の名所絵屏風歌、朱雀天皇皇女昌子内親王裳着の折の屏風歌など数多くの歌が残されている。女流歌人である中務とはかなり親密な関係にあったらしく、彼女との贈答歌は『信明集』にも一連の歌群として収録される。他にも源公平(信明の叔父)の三女や閑院の大君とも交渉があったらしい。
 「後撰和歌集」以下の勅撰和歌集に22首入集。家集に「信明集」がある。

源 明子 源 道済
 源典侍と呼ばれた。紫式部の義姉(夫・藤原宣孝の兄の説孝の妻)で、『源氏物語』に登場する源典侍のモデルとの説もある。

 平安時代中期の官人・歌人。中古三十六歌仙の一人。文章生から宮内少丞,蔵人,式部大丞を歴任、正五位下大宰少弐に至り任地に赴きその地で没した。藤原道長の時代の歌壇で活躍し「拾遺和歌集」の撰集にも関ったという。漢詩文にも秀でていた。
 「拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に入集。家集に「通済集」、歌学書に「通済十体」がある。

源 兼澄

 平安時代中期の官人・歌人。祖父源公忠及び伯父源信明は共に三十六歌仙であり、叔父の観教,勝観,寛祐はいずれも勅撰歌人である。大中臣能宣の娘を妻とし、大中臣輔親(能宣の子)と親しかった。子に命婦乳母(勅撰歌人)がいる。
 春宮帯刀,右馬允,蔵人所雑色,蔵人,式部丞,左衛門尉,若狭守などを経て、従五位上・加賀守に至った。輔親と並ぶ一条朝の専門歌人で、永観元年(983年)藤原為光家障子絵歌、長保3年(1001年)東三条院詮子四十賀屏風歌、寛弘元年(1004年)一条天皇松尾社行幸和歌、長和元年(1012年)大嘗会主基屏風歌を詠進し、長保5年藤原道長家歌合に出詠した。
 大中臣能宣・輔親父子をはじめ、清原元輔,安法法師,曾禰好忠,藤原長能,藤原実方らと親交があった。歌集に『兼澄集』があり、『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に12首入集しており、また『後十五番歌合』にも入る。『袋草子』には即興に歌を1首ずつ読み出して藤原兼家から称賛された逸話が残る。