光孝源氏

K321:光孝天皇  光孝天皇 ― 源 康行 G712:源 康行

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康尚 定朝

 平安時代中期の仏師。仏師職の祖と称される。官人として従五位下・尾張介に至るが出家。
 康尚が最初どのような仏所組織に属していたかは不明だが、やがて寺院付属の工房から離れ、私立の工房を形成、定朝をはじめ多くの弟子を抱える専業的な造像体制を確立し、皇室,摂関家などの造寺発願や高野山,比叡山などで造仏に従事した。
 確実な遺作は伝存しないが、東福寺同聚院不動明王坐像は伝康尚作とされる。本作の制作にあたって、康尚は智証大師請来様と言われる図様に従いながらも、醜悪さを廃し優美さを盛り込んだ。仏教的な規範よりも美意識を優先できる、専業仏師ならではの作品といえ、洗練・優雅な定朝様の先駆となる作品である。

 平安時代後期に活躍した仏師。寄木造技法の完成者とされる。
 治安2年(1022年)、藤原道長が創建した法成寺金堂・五大堂の造仏の功績により、仏師として初めて法橋になった。定朝の主宰する工房は極めて大規模で、万寿3年(1026年)8月から10月にかけて行われた中宮威子の御産祈祷のために造られた27体の等身仏は、125人もの仏師を動員して造られたことが判明している。晩年の天喜2年(1054年)に造仏した京都西院の邦恒朝臣堂の丈六阿弥陀如来坐像は、当時の公家たちを魅了した。
 現存する確実な遺作は平等院本尊の木造阿弥陀如来坐像(国宝)が唯一とされる。全てを柔らかな曲線と曲面でまとめ、彫りが浅く平行して流れる衣文、瞑想的でありながら微睡むような表情など、それまで一木造特有の重みや物質感を廃した柔和で優美な造形が特徴である。こうした定朝の仏像は平安貴族の好尚に合致し、「仏の本様」と讃えられた。定朝はそれまでの平安前期の彫刻ではなく、天平時代の古典彫刻学び、これに寄木造や内刳りという新しい技法を組み合わせて独自の作風を切り開いた。定朝の風を装ったいわゆる定朝様の作例はやがて形式化に堕していったのに対し、この阿弥陀像は定朝の代表作として推奨するに足る傑作である。各地には定朝作と伝えられている仏像が残るが、その大半は別人の作だと考えられている。
定朝没後は、息子の覚助と弟子の長勢が勢力を持ち、覚助の系統から院派と慶派、長勢からは円派が生まれた。

覚助 頼助

 平安時代中期から後期の仏師。定朝の子とも弟子とも言われている。七条仏所の祖。
 事績については、康平2年(1059年)の法成寺阿弥陀堂・五大堂の造仏についてが初見である。治暦3年(1067年)興福寺金堂などの造仏を行った功により法橋に任じられ、翌4年(1068年)には法眼となっている。承暦元年(1077年)、法勝寺の造営中に没してしまったが、その後は弟子の院助が引き継いで完成させている。
 覚助の作品と推定される仏像として、延久3年(1071年)に復興された祇園社観慶寺の旧本像で、現在大蓮寺にある薬師如来像(重要文化財)が挙げられる。
 『古事談』には、師である定朝に義絶されるも、左近衛府に献ずるため定朝が作成していた陵王の面を留守の間に自ら手直しし、勘当が許されたエピソードが記載されている。

 平安時代後期に活躍した奈良仏師。定朝の孫で覚助の実子または直系の弟子として多数の造像に携わる。興福寺を中心に主に奈良で活躍したため、頼助の系統は御寺仏師,奈良仏師と呼ばれ、運慶ら優れた仏師を輩出した。子に金剛峯寺所蔵「絹本著色両界曼荼羅図」(血曼荼羅)を描いた常明がいる。
 1103年(康和5年)、興福寺の落慶供養に際して法橋に叙せられた。1110年(天永元年)、再び興福寺寺諸像を修理を指導。1116年(永久4年)、興福寺と関係が深い春日大社西塔の仏像を造立する。

康助 頼源

 奈良仏師・頼助の子息とみられるのが康助である。康助に関しては、その主たる活動の場は京都であり、禁裏や貴族の発願の造像を手がけた。記録に残る康助の事績としては、長承元年(1132年)鳥羽院発願による薬師十二神将像、久寿元年(1154年)同じく鳥羽院発願による鳥羽金剛心院の釈迦三尊像などがある。なお、永久4年(1116年)の春日西塔造仏で法橋、保延6年(1140年)の春日東塔造仏で法眼に補任されたように奈良との関係は保持し続けた。また、三十三間堂の創建で造仏を指揮したとされる。 
 主に古像を修理し、その調査研究も行ったとされる。新しい工法を採用するなど、奈良仏師の立場とそれに基づく作風を飛躍発展させた。平安末期における奈良仏師の方向性を決定づけたと評される。
 また、作品としては北向山不動院の不動明王坐像(重要文化財)がある。本像のように右脚を踏み下げる像は、絵画には作例があるが、平安・鎌倉時代の彫像では本像以外に例をみない。高野山金剛峯寺の大日如来像(重要文化財)は康助作の金剛界五仏の中尊にあたると推定されている。円派・院派の華やかさと異なった沈着な趣がある。
 三十三間堂に現存する平安時代作の千手観音像124体のうちに作品が存在する可能性があり、この中で最も優れた160号像や919号像は康助の作としてよい。

平安時代後期の絵仏師。1142年(康治元年)藤原忠通の発願により葉衣観音を描き、1149年(久安5年)延勝寺供養の際の勧賞で父の功績を譲られて法橋に任じられ、その後は法眼に昇任した。両界曼荼羅や阿弥陀如来像など多くの画を描いたことが伝えられているが、遺品は残されていない。
院助 院覚

 平安時代の仏師。七条大宮仏所と院派の祖。定朝の孫または孫弟子で、覚助または長勢の実子とも弟子とも言われる。
 承暦元年(1077年)、白河天皇発願の法勝寺の造仏に参加し、薬師堂に大威徳明王の造立の功で兼慶と法橋位を賜る。長治2年(1105年)、円勢等と協力して堀河天皇の病気平癒を祈って諸仏を造立、尊勝寺で造仏の功により法眼位に昇進したという。

 平安時代後期の院派仏師。院助の実子または弟子。
 永久2年(1114年)、関白の藤原忠実が発願した阿弥陀如来像を造立するが、保安元年(1120年)に忠実が関白から失脚すると連座して一線から退く。大治2年(1127年)に行われた日野新堂の仏像修理に参加し活動を再開すると、大治5年(1130年)待賢門院発願の法金剛院の造仏に参加し法橋に昇進、長承元年(1132年)には仏師として当時最高位の法眼位まで昇進。以降、保延2年(1136年)頃まで、法成寺や白川殿などで活動したとされる。
 宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像を定朝作と鑑定した。定朝を高く評価し弟の院朝等と定朝様について研究した。

院尊 院朝

 興福寺で造仏、興福寺講堂大仏師。寿永2年の興福寺本僧綱補任では、唯一最高位の法印にあったことがわかる。東大寺焼き討ち後の復興時、大仏光背造立などを指揮。近江に源氏調伏の高さ五丈の毘沙門天を造立し、源頼朝の不興をかう。
 確実な現存作品は確認されていない。ただ、長講堂阿弥陀三尊像は、後白河院関係の造仏だと考えれば、院尊の作と見るのが妥当とされる。この仏像の特色として、両脇侍が蓮台から片足を踏み下げている点が珍しい。これは天平彫刻から範をとったと思われ、当時の古典への関心が窺える。もうひとつの特色として、脇侍の天衣を正面で両肩から胸部にかかる縁に沿って、肉身や条帛に重なるように掘り出して取り付けられている点である。着衣や装身具を別で作るのは鎌倉時代以降見られる技法であるが、この作品では、手間の掛かる割りに効果を上げているとは言い難い。しかし、当時の仏師の現実への興味、こだわりといった意識変化の兆しを見ることができる。

 平安時代後期に活動した院派の仏師。院助の実子または弟子で、院覚の実弟または弟弟子。六条万里小路仏所の祖。定朝を最初期に評価し後世定朝様とよばれる様式を確立した人物の一人。
 長承3年(1134年)、院覚とともに定朝の作品を実測した。保延5年(1139年)には、院覚から法橋を譲られ、久寿2年(1155年)頃までに法眼に昇進、永暦2年(1161年)頃までには仏師としては異例の高位である法印に上ったという。後代仏師の地位が上げる礎を築いた。
 確実な現存作品はないが、以下の記録がのこる。保延5年(1139年)法金剛院の塔内に仏像を造立。康治元年(1142年)白河御所の八尺阿弥陀如来の三尊像を造立。康治2年(1143年)関白藤原頼長の発願による等身妙見菩薩像を造立。久寿2年(1155年)、最勝金剛院に丈六阿弥陀如来像を造立。

院吉 長勢

 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍したの院派仏師。
 鎌倉末期に同派の院保や院涴の主宰する造像に参加している。天龍寺で釈迦三尊像を造り、1342年に御衣木加持をおこなっている。院吉の当時の京都における評価の高さが伺われる。文和以降の作品は知られていないが、貞治3年7月の地頭職の沙汰に関する文書があり、同年5年4月の『石清水八幡宮記録』の院広の記事に「故院吉法印子」とあるので、この間に亡くなったと考えられる。息子に跡を継いだ院広、院遵らがいる。     
 作品には以下がある。十一面観音坐像(法金剛院:1319年頃)重要文化財。像内に納入された法印・院涴以下の仏師交名の中に院吉の名が見える。如来形坐像(愛媛県東円坊:1330年)形状から大日如来と推定される。院吉の単独作。釈迦如来及両脇侍坐像(静岡県方広寺、1352年)は院広,院遵と共作。木造釈迦如来坐像(栃木県興禅寺:1352年)も院広,院遵と共作。また、地蔵菩薩像(愛知県定光寺)寺の開山の年譜に「名仏師院吉法印」の作と記されてるが詳細不明。

 平安時代中期の仏師。円派の祖。定朝の弟子であり、仏師初の法印となる。
 長勢の仏師としての事績はまず、康平7年(1064年)に広隆寺の日光・月光菩薩立像(重要文化財)、及び同寺の十二神将立像(国宝)を造立したことが挙げられる。また長勢は、天喜6年(1058年)に焼失していた法成寺の再興にも参加し、治暦元年(1065年)に金堂の造仏賞として、法橋に叙された。延久2年(1070年)には円宗寺金堂の造仏をも担当し、高さ二丈の毘盧遮那仏、一丈六尺の薬師如来と一字金輪、その他梵天・帝釈天・四天王の合わせて9体の巨像群を同年10月から12月末にかけてのわずか2ヶ月間で作り上げ、大仏師覚如(円宗寺講堂の造仏を担当)とともに法眼に叙せられた。長勢の最も名高い業績は法勝寺の造仏で、まず講堂・阿弥陀堂の諸仏によって承暦元年(1077年)法印に昇叙され、応徳2年(1085年)に常行堂九体阿弥陀仏も造立した。寛治5年11月9日、82歳で没した。

明円 成朝

 平安時代末期から鎌倉時代初期の仏師。円派の優美な伝統的彫刻様式を伝える。
 1166年(仁安元)近衛基実の法要、阿弥陀如来,観音菩薩,不動明王の三躯を造り、これにより法橋位に叙せられる。1191年(建久2)平重衡の焼打ち後の復興で、興福寺金堂の造仏を手がける。しかし、明円以後、円派は衰退した。

 定朝の血を引く奈良仏師の正系。
 1181年(治承5年)6月、焼失した興福寺諸仏を京都仏師である円派の明円や院派の院尊とともに再興し、成朝は食堂の造仏を担当した。しかし、食堂本尊の造像には専念せず、1185年(文治元年)、源頼朝の招きに応じて関東に下り、頼朝発願の勝長寿院阿弥陀如来像,永福寺丈六阿弥陀如来像などを制作する。頼朝が数いる仏師の中からなぜ成朝を選んだかについては諸説あるが、頼朝の正系・傍系の差や一門内の嫡庶の別の明確化を企図する政治姿勢から、成朝が定朝嫡流の仏師だったからと考えられる。そして、北条時政ら御家人たちが運慶を採用したのも、成朝と同門ではあるが傍系の康慶一門のうち、更に無位の成朝を用いた頼朝に配慮し、当時奈良仏師内で唯一僧綱位を得ていた康慶は避け、その跡取の運慶に落ちいたと推測できる。
 1189年(文治5年)、興福寺西金堂で造仏。1194年(建久5年)9月、興福寺中金堂弥勒像造仏により法橋位に叙せられた。釈迦如来像が現存する。
 成朝没後すると奈良仏師の正系途絶え、奈良仏師の流れは傍系の康慶、運慶等の慶派に受け継がれていった。