清和源氏

G336:斯波家氏  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 足利義氏 ― 斯波家氏 ― 柴田義勝 G342:柴田義勝

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柴田勝義 柴田勝家
 織田氏の重臣となった柴田勝家の父親だとの言い伝えはあるが確実な史料はなく、勝家はおそらく土豪階層の家の出身であると推定され、後に付会された伝承とみられる。

 義勝の系譜については甚だ疑わしいとされる。勝家は若くして、家老として尾張の織田信秀・信長親子に仕えた。天正10年(1582年)に、織田信長が本能寺の変で急死すると、信長の跡継ぎをめぐり羽柴秀吉と対立する。天正11年(1583年)には、賤ヶ岳の戦いで秀吉と戦うが敗れ、その後居城の北ノ庄城で自害、勝家筋の柴田氏は滅びた。

 

詳細はWikipedia(柴田勝家)参照

柴田勝政 柴田勝豊

 柴田勝家の甥にあたる柴田義宣(監物)の養子となる(実兄ともされる)。天正3年(1575年)、柴田義宣は勝山一帯に入り、七山家一揆平定に着手するが、天正5年(1578年)に大野郡河合で討死した。
 勝安(勝政)は一揆勢の籠る谷城を攻略。実兄である佐久間盛政とともに加賀一向一揆の平定に当たり、谷峠を越えて山内衆の根拠である牛首谷を平定する。福井県勝山市栄町の義宣寺は、養父義宣の菩提を弔うために勝安が建立したものという。
 天正8年(1580年)、勝安は村岡山城にあった拠点を袋田村に移し、勝山城を築城した。勝安はこの地を「勝山」と改めたともされるが、文献上「勝山」が現れるようになるのは文禄年間(1592~96年)という。
 勝安が北袋を治めた期間は短かったが、天正10年(1582年)2月21日付で畔川など3か村の百姓中宛に出した文書が残されており、これらの村を直轄地とし、村を立てる際に用水を引いたために夫役を免除する内容である。
 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで討死。27歳没。菩提寺は義宣寺。天正10年に夫役が免除された勝山市畔川地区では、勝政に恩義を感じたためか、地域の寺院に勝政の位牌を安置し、その法要を営んできた。

 柴田勝家の家臣・吉田次兵衛の子またはその養子で渋川八左衛門の子として生まれる。生母は勝家の姉であることから、甥にあたるが、勝家に当時は実子がいなかったためにその養子となった。
 天正4年(1576年)、勝家の居城北ノ庄城の支城となる丸岡城を築き、勝豊はその城主として4万5,000石を領した。
 天正9年(1581年)、織田信長の京都御馬揃えでは勝家とともに上洛して参加した。
 天正10年(1582年)6月、信長死後の清洲会議で勝家の所領となった近江長浜城の守備を任された。天正10年(1582年)8月24日には、湖北三郡(坂田郡,浅井郡,伊香郡)に対して徳政を発布。
 しかし、勝家は同じ養子でも柴田勝政を優遇して勝豊を冷遇したといい、従兄にあたる佐久間盛政とも仲が悪かったことなどもあって、12月に羽柴秀吉が大軍をもって城を囲むと、勝豊は大谷吉継の調略を受けて、長浜城ごと羽柴方に寝返った。
 ところが、すでに病を得て伏せっていたため、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは家臣を代理として参戦させた。
 賤ヶ岳の戦いの直前、天正11年(1583年)4月16日死去。東福寺で没したとされる。

柴田勝房

 三河国本宿陣屋3520石柴田家当主。祖先とされる柴田勝家の位牌や、旗本柴田家初代勝重の事績を記した文書を春清寺に納め、また同寺に柴田家の由来を記した石碑を立てた。
 1700石の旗・坂本直鎮の子として生まれる。坂本家は直鎮の長女の婿である坂本直富が嫡子となっており、『寛政重修諸家譜』では「直鎮の二男」として扱われている。実父の直鎮は柴田家から坂本家に養子に入った人物である。明和4年(1767年)、直鎮の大甥にあたる柴田勝満の末期養子として勝房が迎えられ、17歳で柴田家3020石を継ぐ。
 明和5年(1768年)、徳川家治に初めて拝謁。明和6年(1769年)2月に小納戸に列し、3月に小姓に移る。明和7年(1770年)、従五位下出雲守に叙任。天明7年(1787年)、新番頭に転じる。寛政7年(1795年)に小普請組支配、寛政9年(1797年)に持筒頭を歴任。寛政10年(1798年)に致仕し寄合肝煎となる。