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福島正信 | 福島正則 |
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『武家盛衰記』では源頼綱の11世の孫とする。正室は関氏(豊臣秀吉の叔母)。はじめ尾張国海東郡で桶屋をしていたといわれる。妻が豊臣秀吉の叔母にあたることから召し出されて、家臣として仕えた。1584年の小牧長久手の戦いにも参加している。その後は大名となった長男・正則の保護を受けながら余生を送った。慶長2年(1597年)に死去。墓所は建仁寺永源庵にある。 |
桶屋を営んだ福島正信の長男として尾張国海東郡で生まれる。また星野成政の子で福島正信の養子になったともいわれる。 母が豊臣秀吉の叔母(大政所の姉妹)だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に仕え、天正6年(1578年)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。 |
福島正之 | 福島忠勝 |
別所重宗の7男として生まれるが、叔父・福島正則の嫡男・福島正友(正長とも)が夭折したため、正則の養嗣子となる。慶長4年(1599年)に徳川家康の養女・満天姫(実父は松平康元)と結婚。翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに出陣し、竹ヶ鼻城や岐阜城を攻めて軍功を挙げる(竹ヶ鼻城の戦い)。 しかし慶長12年(1607年)、正則から「近頃は乱行を行うなどして狂疾である」と江戸幕府に訴えられ、幽閉処分に処される。この訴えは正則が実子の福島忠勝に後を継がせるために行なった虚偽であるともいわれている。慶長13年(1608年)3月(または5月)に餓死した。享年24。 |
慶長3年(1598年)、福島正則の次男として尾張国の清洲城に生まれた。初名は正勝、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の偏諱を受け忠勝と名乗った。 従兄弟の義兄・正之が死去した後に嫡男となった。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では父・正則は江戸城留守居役として江戸に留めおかれたが、忠勝は大坂に出陣した。翌慶長20年(1615年)の夏の陣は遅参したため、破壊された道や堤の修復を行った。 |
福島正長 | 福島正勝 |
福島正則の次男である忠勝の長男として広島城で誕生。祖父・正則が改易されて信濃へ移った際には、江戸で叔父・福島正利に養育される。元和6年(1620年)、父・忠勝が祖父・正則に先立ち23歳で死去。福島家は叔父・正利が3000余石の旗本として福島氏を再興したが、寛永14年(1637年)嗣子なく没し一旦断絶。正長は病身だったため京都への居住を願い出て、四条の柳馬場通に移り、剃髪して宜斎と号する。天和元年(1681年)、正長の長男で忠勝の孫にあたる正勝が召し出され、幕府に小姓組番頭として仕え、以後福島氏は2000石の旗本として存続している。 元禄15年(1702年)9月3日、88歳で死去。 | 福島氏は、福島正則の死後、正則の次男・正利(正勝の祖父の弟)が旗本となって存続していた。しかしその正利が37歳で嗣子無く没し、福島氏は一旦断絶する。正勝は京に住んでいたが、天和元年(1681年)3月21日に召し出され、同年4月15日、将軍徳川綱吉に拝謁。天和2年(1683年)12月23日には上総国長柄郡・夷隅郡の内に2,000石を与えられ寄合に列し、元禄2年(1689年)10月15日小姓組番頭として仕えた。同年12月27日には伊豆守に叙任されたが、幕府に仕えてわずか7年で没した。享年33、法名は常空。墓所は京都市妙心寺塔頭・海福院(福島正則創建)。以後、福島氏は2,000石の旗本として正視、正森(正視の婿養子),正韶,正聖と続いた。 |
福島正森 | 福島正利 |
伊予守を称した。安芸国備後国の大名の福島正則の子,甥,弟などさまざまな説がある。知行5千石。「一之谷」という名馬を所有していた。福島正鎮とともに豊臣方として大坂城に入城。大坂冬の陣では、正鎮と共に誉田の戦い、道明寺の戦いに参加。天王寺・岡山の戦いの最終決戦では、茶臼山西部隊2500人の一員として、徳川勢と戦いを繰り広げた。大坂の陣の後の消息は不明。子孫を名乗る家がある。 |
母は津田長義の娘。難産であったため、正利が産まれたときに母は死亡している。 元和9年(1619年)広島城の無断改修を理由に改易された福島正則とともに、信濃高井野藩に移る。 |
福島高晴 | 福島高経 |
兄と共に従兄弟にあたる秀吉に仕え、文禄3年(1594年)伊勢国長島に1万石を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは兄と共に東軍に与して会津征伐に従軍し、西軍が挙兵すると本国に戻って西軍に与した桑名城主・氏家行広を攻めた。その功績により戦後、大和宇陀松山3万石に加増移封される。宇陀松山移封後は、宇陀松山城の改修や城下町の整備に取り組んだ。 しかし慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣氏に内通(密かに兵糧を大坂城に入れていた説あり)していた嫌疑をかけられて改易される。ただし嫡子の正晴(高経)の子・福島忠政は500石を与えられて名跡存続を許された。その後を養子の福島定正(前田利意の子)が継ぎ、福島正武,福島正胤と続くが、正胤は博奕の罪により遠島となった。 |
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、父の高晴は戦功を賞されて大和宇陀松山30,000石に加増移封された。正晴は本来その後を継ぐはずだったが、慶長20年(1615年)に父が大坂夏の陣において豊臣秀頼に内通していた嫌疑をかけられて改易され、父に連座して伊勢国山田に移り住んだ。 寛永17年(1640年)、同地において寺田将監という人物と争いを起こし、弟・高広と共に寺田を殺害した。その後、弟と共に切腹した。法名は傑岩道英。 |