清和源氏

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福島正信 福島正則
 『武家盛衰記』では源頼綱の11世の孫とする。正室は関氏(豊臣秀吉の叔母)。はじめ尾張国海東郡で桶屋をしていたといわれる。妻が豊臣秀吉の叔母にあたることから召し出されて、家臣として仕えた。1584年の小牧長久手の戦いにも参加している。その後は大名となった長男・正則の保護を受けながら余生を送った。慶長2年(1597年)に死去。墓所は建仁寺永源庵にある。

 桶屋を営んだ福島正信の長男として尾張国海東郡で生まれる。また星野成政の子で福島正信の養子になったともいわれる。 母が豊臣秀吉の叔母(大政所の姉妹)だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に仕え、天正6年(1578年)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。
 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5,000石を与えられた(他の6人は3,000石)。
 天正12年(1584年)の小牧長久手の戦い,根来寺攻め,四国征伐にも従い、天正15年(1587年)の九州平定の後、伊予国今治11万3千余石を与えられ、ここに正則は「分国」を形成する大名的領主となった。文禄元年(1592年)からの文禄の役では五番隊の主将を務めている。 正則は石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、慶長4年(1599年)の前田利家の死後、朋友の加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意したが、その経緯から家康の昵懇大名の一人となる。また、姉の子で正則の養子になっていた正之と家康の養女・満天姫との婚姻を実現させた。これは諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反するものだった。
 慶長5年(1600年)の会津征伐には6,000人を率いて従軍。その途中、上方で三成が挙兵した報を受けての小山評定では、家康の意を受けた黒田長政にあらかじめ懐柔されていた正則が三成挙兵に動揺する諸大名の機先を制して、いち早く家康の味方につくことを誓約し、反転して西上する方針が決定する。清洲から美濃方面に進軍し、西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させる。関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家勢1万7,000と戦闘を行い、宇喜多勢の進撃を防ぎ切ることに成功する。正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走し、戦後安芸広島と備後鞆49万8,000石を得た(広島藩)。芸備に入封した正則は、善政を敷き、また領内の寺社の保護にも熱心であり、慶長7年(1602年)には厳島神社の平家納経を修復させた。
 慶長9年(1604年)からの江戸幕府による諸城修築の動員に参加して忠勤に励む一方、豊臣秀頼の見舞いや説得など豊臣家を主筋に立てることも忘れなかった。
 慶長17年(1612年)に病を理由に隠居を願い出る。しかしそれも許されず、大坂の陣では秀頼に加勢を求められても正則は拒絶し、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するに留まった。また一族の福島正守,福島正鎮は豊臣軍に加わった。幕府には従軍も許されず、冬の陣,夏の陣ともに江戸留守居役を命じられたが、嫡男の福島忠勝が兵を率いて幕府軍に加わった。
 家康死後の元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の修繕をめぐり幕府から咎められる。また、人質として江戸に送るはずだった忠勝の出発を遅らせたことなどに怒った将軍・徳川秀忠は安芸・備後50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減転封した。移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り隠居。出家して高斎と号した。
 元和6年(1620年)に忠勝が早世したため、正則は2万5,000石を幕府に返上した。寛永元年(1624年)、高井野で死去。享年64。幕府の検死役の堀田正吉が到着する前に、家臣・津田四郎兵衛が正則の遺体を火葬したため残りの2万石も没収された。

福島正之 福島忠勝

 別所重宗の7男として生まれるが、叔父・福島正則の嫡男・福島正友(正長とも)が夭折したため、正則の養嗣子となる。慶長4年(1599年)に徳川家康の養女・満天姫(実父は松平康元)と結婚。翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに出陣し、竹ヶ鼻城や岐阜城を攻めて軍功を挙げる(竹ヶ鼻城の戦い)。 しかし慶長12年(1607年)、正則から「近頃は乱行を行うなどして狂疾である」と江戸幕府に訴えられ、幽閉処分に処される。この訴えは正則が実子の福島忠勝に後を継がせるために行なった虚偽であるともいわれている。慶長13年(1608年)3月(または5月)に餓死した。享年24。
 妻の満天姫との間に男子があったが、満天姫が実家へ戻る際に共に連れて行った。満天姫は後に津軽信枚に再嫁し、正之の子は信枚の弟分となった後、津軽氏家臣の大道寺直英の婿養子となり大道寺直秀を名乗っている。

 慶長3年(1598年)、福島正則の次男として尾張国の清洲城に生まれた。初名は正勝、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の偏諱を受け忠勝と名乗った。 従兄弟の義兄・正之が死去した後に嫡男となった。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では父・正則は江戸城留守居役として江戸に留めおかれたが、忠勝は大坂に出陣した。翌慶長20年(1615年)の夏の陣は遅参したため、破壊された道や堤の修復を行った。
 元和5年(1619年)、父の正則が幕命によって改易された時、将軍・秀忠の上洛に随行していたが、父と共に信濃高井野に移った。この際に正則から家督を譲られた。
 翌元和6年(1620年)、父に先立って死去。享年23。この時、正則は悲しみのあまり、越後国魚沼郡2万5000石を幕府に返上している。墓所は須坂市小河原の大乗寺。墓石には正勝と記されている。ほかに京都市妙心寺塔頭・海福院(正則創建)にも墓がある。
 弟の正利が3000余石の旗本として福島氏を再興したが、のち嗣子なく断絶した。その後、京に住んでいた忠勝の子・正長の長男で孫にあたる正勝が召し出され、小姓組番頭として仕え、以後福島氏は2000石の旗本として存続した。

福島正長 福島正勝
 福島正則の次男である忠勝の長男として広島城で誕生。祖父・正則が改易されて信濃へ移った際には、江戸で叔父・福島正利に養育される。元和6年(1620年)、父・忠勝が祖父・正則に先立ち23歳で死去。福島家は叔父・正利が3000余石の旗本として福島氏を再興したが、寛永14年(1637年)嗣子なく没し一旦断絶。正長は病身だったため京都への居住を願い出て、四条の柳馬場通に移り、剃髪して宜斎と号する。天和元年(1681年)、正長の長男で忠勝の孫にあたる正勝が召し出され、幕府に小姓組番頭として仕え、以後福島氏は2000石の旗本として存続している。 元禄15年(1702年)9月3日、88歳で死去。  福島氏は、福島正則の死後、正則の次男・正利(正勝の祖父の弟)が旗本となって存続していた。しかしその正利が37歳で嗣子無く没し、福島氏は一旦断絶する。正勝は京に住んでいたが、天和元年(1681年)3月21日に召し出され、同年4月15日、将軍徳川綱吉に拝謁。天和2年(1683年)12月23日には上総国長柄郡・夷隅郡の内に2,000石を与えられ寄合に列し、元禄2年(1689年)10月15日小姓組番頭として仕えた。同年12月27日には伊豆守に叙任されたが、幕府に仕えてわずか7年で没した。享年33、法名は常空。墓所は京都市妙心寺塔頭・海福院(福島正則創建)。以後、福島氏は2,000石の旗本として正視、正森(正視の婿養子),正韶,正聖と続いた。
福島正森 福島正利
 伊予守を称した。安芸国備後国の大名の福島正則の子,甥,弟などさまざまな説がある。知行5千石。「一之谷」という名馬を所有していた。福島正鎮とともに豊臣方として大坂城に入城。大坂冬の陣では、正鎮と共に誉田の戦い、道明寺の戦いに参加。天王寺・岡山の戦いの最終決戦では、茶臼山西部隊2500人の一員として、徳川勢と戦いを繰り広げた。大坂の陣の後の消息は不明。子孫を名乗る家がある。

 母は津田長義の娘。難産であったため、正利が産まれたときに母は死亡している。 元和9年(1619年)広島城の無断改修を理由に改易された福島正則とともに、信濃高井野藩に移る。
 寛永元年(1624年)に父の正則が死去したとき、その遺体を幕府に無断で火葬したため、福島氏は改易される。この年、正利は取りなしを願ってか、父の遺品から大御所・徳川秀忠に正宗の刀・青木国次の脇差・木亘肩衝を、将軍・徳川家光に大光忠の刀・大森義光の脇差・あふら茶入を、家光の弟・徳川忠長に切匁貞宗の刀・義光の脇差・修理肩衝をそれぞれ献上している。寛永2年(1625年)、幕府は正則の功績を考え、正利に父の旧領から3112石を与えて旗本とした。
 江戸定詰めの正利の知行所は、高井野藩領地の一部の信濃国高井野村,駒場村,中島村,三王島・雁田村,大熊村の6ヶ村であったが、父・正則と同様に年貢を免除するなどして新田開発を奨励した。
 寛永14年(1637年)12月8日に死去。享年37。墓所は東京都港区三田の正覚院。長野県高山村紫に供養塔がある。正利に嗣子は無く福島氏は断絶した。

福島高晴 福島高経

 兄と共に従兄弟にあたる秀吉に仕え、文禄3年(1594年)伊勢国長島に1万石を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは兄と共に東軍に与して会津征伐に従軍し、西軍が挙兵すると本国に戻って西軍に与した桑名城主・氏家行広を攻めた。その功績により戦後、大和宇陀松山3万石に加増移封される。宇陀松山移封後は、宇陀松山城の改修や城下町の整備に取り組んだ。 しかし慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣氏に内通(密かに兵糧を大坂城に入れていた説あり)していた嫌疑をかけられて改易される。ただし嫡子の正晴(高経)の子・福島忠政は500石を与えられて名跡存続を許された。その後を養子の福島定正(前田利意の子)が継ぎ、福島正武,福島正胤と続くが、正胤は博奕の罪により遠島となった。
 改易後は道牛と号し、伊勢山田に蟄居。その生活は貧困を極めたという。寛永10年(1633年)9月25日、赦免されることなく在所にて61歳で死去した。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、父の高晴は戦功を賞されて大和宇陀松山30,000石に加増移封された。正晴は本来その後を継ぐはずだったが、慶長20年(1615年)に父が大坂夏の陣において豊臣秀頼に内通していた嫌疑をかけられて改易され、父に連座して伊勢国山田に移り住んだ。 寛永17年(1640年)、同地において寺田将監という人物と争いを起こし、弟・高広と共に寺田を殺害した。その後、弟と共に切腹した。法名は傑岩道英。
 長男の忠政は後に500石を与えられ、旗本として名跡存続を許されたが、四代後の福島正胤が罪を得て家名は断絶した。