<桓武平氏>高望王系

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永井尚庸 永井直敬

 尚庸系永井家初代。山城国淀藩主・永井尚政の3男。母は内藤清成の娘。
 1641年に三代将軍・徳川家光に出仕し、のち将軍世子であった徳川家綱の小姓を務め、1652年に蔵米1千俵を与えられた。
 万治元年(1658年)、父の隠居に伴い河内国内で2万石を分与され大名となった。蔵米1千俵は収公されている。 その後、1663年に大坂加番となり、1664年、『本朝通鑑』編纂の奉行に任じられた。1665年に奏者番、さらに若年寄に任じられた。 寛文10年(1670年)に京都所司代に任じられ、山城,摂津,河内国内で1万石を加増され計3万石となった。
 延宝4年(1676年)4月に病気を理由に願いを出し、京都所司代を免ぜられた。翌延宝5年(1677年)に死去し、跡を次男の直敬が継いだ。享年47。墓所は宇治市の興聖寺。
 子孫は転封を繰り返した後、美濃加納藩主として明治維新を迎えた。

 

 延宝5年(1677年)、父の死去により跡を継ぎ、同年閏12月26日に従五位下・伊賀守に叙任された。貞享4年(1687年)、那須氏が改易され、代わって河内国内に所領を持っていた直敬が下野烏山藩主として転封された。この際に庶兄の永井尚附に500俵を分与した。元禄7年(1694年)11月15日に寺社奉行となり、後に奏者番も兼任した。
 元禄14年(1701年)9月1日、浅野長矩が改易され、空いた播磨赤穂藩主となり3,000石加増され3万3000石となった。しかし直敬は寺社奉行として幕政に参与していたことから、藩政は家臣団によって行なわれた。宝永元年(1704年)10月1日には若年寄となった。宝永2年(1705年)、赤穂藩で大洪水が発生して4000石を失う大被害を受けた。同年9月22日に伊豆守に叙任された。
 宝永3年(1706年)1月28日に信濃飯山藩に移封された。宝永8年(1711年)2月11日に武蔵岩槻藩に移封されるが、正徳元年(1711年)6月3日、岩槻にて死去した。享年48。
 烏山藩主時代の直敬について『土芥寇讎記』に人使いが良くない愚将、まだ若く才能があり利発だが「人をからかう癖がある」と記されている。 

永井直陳 永井尚志

 元禄11年(1698年)、武蔵岩槻藩の初代藩主・永井直敬の3男として生まれた。正徳元年(1711年)の父の死去により、家督は兄の尚平が継ぎ、直陳は1500石を分与された。正徳4年(1714年)に兄が死去したため、その養子として家督を継承した。継承の際、1千五百石は収公された。同年12月28日に従五位下、伊豆守に叙任された。享保15年(1730年)には伊賀守に転任した。1739年、奏者番に任じられた。その他、生涯に大阪加番を八度も務めた。
 宝暦6年(1756年)5月21日、武蔵岩槻藩から美濃加納藩に移封された。長男の尚俶、次男の尚志がいずれも早世していたため、宝暦12年(1762年)8月2日に甥で義理の婿養子の尚備に家督を譲って隠居し、同年11月26日に死去した。享年65。 

 宝暦6年(1756年)、兄で加納藩嫡子だった尚俶が早世したため嫡子となる。同年、徳川家重に拝謁し叙任するが、兄同様に家督を相続することなく早世した。代わって、従弟にあたる尚備が養子に迎えられ嫡子となった。

 

永井尚備 永井尚佐
 先代・直陳には長男・尚俶、次男・永井尚志の2子があったがともに早世していたため、宝暦11年(1761年)12月に尚備が伯父にあたる直陳の養嗣子となった。宝暦12年(1762年)、直陳の死により跡を継いだ。明和6年(1769年)、大坂加番に任じられて任地に赴いたが、同年7月18日に大坂城にて死去した。享年27。跡を長男の直旧が継いだ。墓所は東京都中野区の功雲寺。 

 寛政2年(1790年)10月29日、先代の永井直旧が嗣子なくして死去したため、従兄弟にあたる尚佐が末期養子となって家督を継いだ。寛政10年(1798年)12月16日、従五位下・山城守に叙任する。後に出羽守、肥前守に改める。幕府から大坂加番を命じられる。寛政10年から翌年にかけて、洪水を契機として百姓一揆が起こり、藩政では多難を極めた。
 文化5年(1808年)、諱を直弼から尚佐と改める。文政2年(1819年)7月8日、奏者番に就任する。文政10年12月20日、若年寄に就任する。天保10年(1839年)5月18日、57歳で死去した。跡を次男の尚典が継いだ。

永井尚典 永井尚服

 長兄・陽之助、次兄・大学の早世により、嫡子となる。文政10年(1827年)12月16日、従五位下・伊豆守に叙任する。後に山城守、肥前守に改める。天保10年(1839年)7月10日、父の死去により家督を継いだ。
 各門番や麻布山のアメリカ合衆国公使館警固などを務めたのち、文久元年(1861年)8月22日、奏者番に任ぜられる。文久2年(1862年)閏8月23日、免職となる。同年10月2日に隠居し、3人の男子はいずれも早世していたため、家督は養子の尚服に譲った。隠居後は松涛と号した。
 明治18年(1885年)正月7日(異説として5月7日)に死去した。 

 陸奥福島藩主・板倉勝俊の7男。官位は従五位下・肥前守、伊豆守。維新後、正五位。爵位は子爵。
 嘉永5年(1852年)7月、尚典の養嗣子となる。文久2年(1862年)10月2日、尚典から家督を譲られた。元治2年12月2日、講武所奉行に就任する。慶応2年6月15日寺社奉行兼奏者番に就任する。慶応3年(1867年)6月15日、若年寄と会計奉行を兼任する。
 慶応4年(1868年)に鳥羽・伏見の戦い勃発すると当初は旧幕府を支持した。そのため、1月28日に家老・片岡左富らは新政府に対し、藩主尚服の隠居と養父尚典の再相続を願い出ている。2月6日、若年寄を解任される。2月11日、江戸から加納に戻る。2月21日、東山道先鋒総督府に対し、恭順を申し入れる。2月22日、謹慎を命じられるとともに新政府軍への藩兵の参加を命じられる。その後、東山道先鋒総督府を許しを得て3月13日、上洛し、改めて恭順の姿勢を示す。4月18日、新政府から謹慎を解かれる。ところが4月25日になって再び謹慎を命じられる。これは、新政府において東山道先鋒総督府が江戸滞在による旧幕府への加担容疑のみを取り調べただけで、若年寄在任による旧幕府への加担容疑を取調が済まされていないという主張が出たためとされる。だが、最終的に閏4月10日に藩兵の新政府軍における功労を認める形で改めて謹慎が解除された。
 明治2年(1869年)の版籍奉還で加納藩知事となり、廃藩置県後は子爵に列せられ、正五位を与えられた。明治18年(1885年)6月11日、53歳で死去した。墓所は本行寺。