貞観8年(866年)従四位下に直叙され、翌貞観9年(867年)侍従に任ぜられる。貞観12年(870年)信濃権守、貞観13年(871年)播磨権守と清和朝後半にかけては地方官を務め、この間の貞観16年(874年)には従四位上に昇叙されている。 貞観18年(876年)弾正大弼に転じると、翌貞観19年(877年)左馬頭と陽成朝では京官を務める。元慶4年(880年)2月には源朝臣姓を与えられて臣籍降下しているが、この時は子女の取り扱いに疎漏があり、同年6月に改めて子女3名が臣籍降下している。元慶5年12月(882年1月)左近衛権中将に任ぜられ、元慶6年(882年)蔵人頭を兼ねるなど、陽成朝後半は要職を歴任した。 元慶8年(884年)正四位下に昇叙。光孝朝でも引き続いて蔵人頭に留任して足かけ10年務めたのち、寛平3年(891年)参議兼宮内卿に任ぜられて公卿に列す。同年9月10日薨去。享年47。
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興基の子女としては忠相,敏相,宜子女王が見えるが、興康は見えない。興康の位置づけとしては、名前からは興基の弟とするのがより適当だが、系図に記す承平元年(931)57歳での卒去だと、寛平3年(891)47歳に卒去したとされる興基の弟ではありえない。こうした矛盾は、興基の子弟について具体的な事情を知らない者によって、後世に偽造されたものと考えられる。 |
纐纈氏の系図としては、初祖とされる纐纈源五真康以降とされており、源義家が朝廷の命により美濃の所領に関与した事を考えると、纐纈真康が義家に仕えたという言い伝えは信頼性の高い。 |