文徳源氏

K318:文徳天皇  源 氏兼 G032:源 氏兼

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野呂行房 波多瀬実徳

 野呂氏は文徳天皇の皇子惟喬親王を祖とし、その子・兼実王が野呂氏を称して臣籍降下したのに始まる一族である。行房は、その子孫である野呂上野介義高の曾孫であり、野呂義房の子、兼実王からは8代のちの子孫になる。
 行房には義実という兄がいたが、この兄が早世したため家督を継ぐ。建久5年(1194年)1月20日、宇都宮朝綱を百町余の公田掠領で訴え処罰するも、宇都宮氏は源頼朝の重臣であり、これが幕府の不興を買い野呂氏は衰退していく。なお、事件の詮議は仙洞(上皇の御所)で行われている。

 1583(天正11)年、主家である北畠具親の再興をかけて、波多瀬城の波多瀬三郎実徳とその叔父・山副十六兵衛実有,六呂木十之右衛門実忠兄弟らが挙兵する。大河内方面からの織田信雄軍を六呂木城と鳥羽見峠で迎え撃ったが、勝ち目無く坂内方面へと敗走し、六呂木城は落城した。六呂木氏,山副氏,波多瀬氏の3人は捕らえられ、船江の本田氏に預けられた。中でも実徳はまだ若干15歳の美少年であったため、織田信雄は惜しんで命を助けようと言うが、実徳は3人とも同罪なので自分だけ助かっても面目が立たないと助命を断った。船江城で磔にされた時には、主君のために命を捨てることは武士の面目である、と言ったという。
野呂元丈

 江戸時代中期の本草学者で蘭学の先駆者とされる。本姓は高橋、名は実夫。
 伊勢国多気郡波多瀬村に生まれ、20歳のとき京都に出て、医学を山脇玄修、儒学を並河天民、本草学を稲生若水に学ぶ。享保5年(1720年)江戸幕府の命で、諸国の薬草を採取する。当時の将軍・徳川吉宗は西洋の学問のうち、実用的なものについては禁を緩め導入を図ったが、この吉宗の命を受けて青木昆陽とともに蘭語を学ぶ。さらに江戸参府中のオランダ人からドドエンスの本草書の存在を聞いて、日本最初の西洋博物学書ともいえる『阿蘭陀本草和解』を著した。またヨンストンの『鳥獣虫魚図譜』の抄訳『阿蘭陀畜獣虫魚和解』も著した。
 大正13年(1924年)、正五位を追贈された。
 野呂元丈の功績を讃え、出身地の三重県多気郡多気町波多瀬に「元丈の館」という記念館が2000年(平成12年)に設置された。隣接して中山薬草薬樹公園も整備され、合わせて「元丈の里」と称されている。