野呂氏は文徳天皇の皇子惟喬親王を祖とし、その子・兼実王が野呂氏を称して臣籍降下したのに始まる一族である。行房は、その子孫である野呂上野介義高の曾孫であり、野呂義房の子、兼実王からは8代のちの子孫になる。 行房には義実という兄がいたが、この兄が早世したため家督を継ぐ。建久5年(1194年)1月20日、宇都宮朝綱を百町余の公田掠領で訴え処罰するも、宇都宮氏は源頼朝の重臣であり、これが幕府の不興を買い野呂氏は衰退していく。なお、事件の詮議は仙洞(上皇の御所)で行われている。
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1583(天正11)年、主家である北畠具親の再興をかけて、波多瀬城の波多瀬三郎実徳とその叔父・山副十六兵衛実有,六呂木十之右衛門実忠兄弟らが挙兵する。大河内方面からの織田信雄軍を六呂木城と鳥羽見峠で迎え撃ったが、勝ち目無く坂内方面へと敗走し、六呂木城は落城した。六呂木氏,山副氏,波多瀬氏の3人は捕らえられ、船江の本田氏に預けられた。中でも実徳はまだ若干15歳の美少年であったため、織田信雄は惜しんで命を助けようと言うが、実徳は3人とも同罪なので自分だけ助かっても面目が立たないと助命を断った。船江城で磔にされた時には、主君のために命を捨てることは武士の面目である、と言ったという。 |