嵯峨源氏

K316:嵯峨天皇  源 定/生/澄 G004:源 定/生/澄

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源 定 源 順

 淳和天皇の猶子になったが、父嵯峨天皇からも特に寵愛された。四条大納言または賀陽院大納言(陽院大納言とも)とも呼ばれた。
 天長5年(828年)、源朝臣の姓を賜った(嵯峨第六源氏と呼ばれた)。その後、同9年(832年)には従三位に直叙されるという、特別な待遇がなされた。翌年の天長10年(833年)に参議になり、治部卿,中務卿を歴任した。承和7年(840年)に淳和上皇の服喪のため、同9年(842年)に嵯峨上皇の服喪のため、それぞれ官を辞した。その後復官して嘉祥2年(849年)中納言になり、貞観元年(859年)には大納言に昇った。しかし「深宮の内に養長して未だ嘗て世俗の艱難を知らず」と評され、性格は温雅で音楽を愛好し、座右に鼓鐘を置いて、退庁の後は自ら弾じて楽しんだという。貞観5年正月3日、正三位大納言兼右大将で薨去。没後従二位を追贈された。

 平安時代中期の学者,歌人。嵯峨源氏の一族で下総権守,和泉守等を歴任し、極官は従五位上、能登守。
 若い頃から博学で有名で、20代で日本最初の分類体辞典『和名類聚抄』を編纂した。天暦五年(951年)には学生の身ながら和歌所の寄人となり、梨壺の五人の一人として『万葉集』の訓点作業と『後撰和歌集』の撰集作業に参加した。漢詩文に優れた才能を見せる一方で、天徳4年(960年)の内裏歌合にも出詠しており、様々な歌合で判者(審判)を務めるなど和歌にも才能を発揮した。特に斎宮女御徽子女王とその娘規子内親王のサロンには親しく出入りし、貞元2年(977年)の斎宮規子内親王の伊勢下向の際も群行に随行した。
 三十六歌仙の一人に数えられる。大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められている。また『宇津保物語』,『落窪物語』の作者にも擬せられ、『竹取物語』の作者説の一人にも挙げられる。

源 至 源 精

 文徳朝の仁寿元年(851年)无位から従五位下に直叙され、斉衡3年(856年)侍従に任ぜられる。
 天安2年(858年)清和天皇の即位後まもなく右兵衛佐に任ぜられると、翌貞観元年(859年)従五位上に叙せられる。清和朝から陽成朝にかけての約20年間に亘って右兵衛佐を務め、この間に相模守を兼ねると共に、陽成朝の元慶3年(879年)従四位下に昇叙されている。その後、中務大輔に遷った。
 光孝朝に入り、仁和元年(885年)右京大夫に転じ、仁和2年(886年)に従四位上に至る。
 淳和天皇の皇女・崇子内親王の御葬送の夜に、皇女の邸宅の隣に住んでいた男が御葬送を見ようとして、女車(女房の乗る牛車)に女と同乗して来ていた。一方で、天下の色好みである源至も御葬送を拝みに来ていたが、かの車を女車と見て寄って来て色っぽく誘いをかけたりする内に、至は蛍を取って女車の中に入れた。そこで、女車に同乗していた男は、灯の消えた真っ暗な中で人々の泣き悲しむ声を聴きなさい、との趣旨の和歌を代筆すると、これに対して至は、皇女の魂は消えてはいないし、蛍の灯りを消してもあなたの顔が見えなくなることはない、旨の和歌を返したという。

 貞観10年(868年)正六位下から二階昇進して従五位下に叙爵し、貞観14年(872年)侍従に任ぜられる。貞観18年(876年)雅楽頭。
 元慶3年(879年)従五位上に昇叙され、翌元慶4年(880年)大宰少弐に任ぜられ地方官に転じる。仁和元年(885年)、大宰府から4月以前に貢進すべき鵜が7月に遅延したこと(違期)を理由に、少弐以下の官人が罰せられた際、同じく少弐の御室安常と共に杖90の刑とされ、贖銅として9斤を科された。同年、少弐の任期を終えて都に戻った際に、光孝天皇に当時の日本では珍しかった猫を献上。この黒猫はすぐに息子の源定省(後の宇多天皇)に譲られ可愛がられた。
 寛平7年(895年)大和守に任ぜられた。

 

源 俊 源 連

 醍醐朝にて左兵衛少尉,左衛門少尉などの武官や六位蔵人を務めた。
 朱雀朝の承平8年(938年)右衛門権佐に任ぜられる。翌天慶2年(939年)武蔵介・源経基が平将門,興世王,武蔵武芝の謀叛を訴えたことに関連して、俊は事件の究明に当たるために武蔵国密告使長官となる。しかし、翌天慶3年(940年)正月に罪を得て官位を剥奪された。天慶4年(941年)12月に恩赦により罪を赦され、天慶5年(942年)3月に右衛門権佐、同年閏3月に従五位上に叙任され、以前の官位に復した。その後、権右少弁を兼ね、天慶9年(946年)村上天皇が即位すると五位蔵人にも補せられ、三事兼帯となった。
 のち、山城守を経て、天暦5年(951年)右中弁に任ぜられると、天暦8年(954年)左中弁と村上朝中期は弁官を務める一方、春宮・憲平親王の春宮亮も兼ねている。その後、近江守として地方官に転じ、位階は従四位上に至る。

 969年(安和2年)3月25日、左馬助源満仲と前武蔵介藤原善時が中務少輔橘繁延と左兵衛大尉源連の謀反を密告した。右大臣師尹以下の公卿は直ちに参内して諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白実頼に送るとともに、検非違使に命じて橘繁延と僧・蓮茂を捕らえて訊問させた。さらに検非違使源満季(満仲の弟)が前相模介藤原千晴(藤原秀郷の息子)とその子久頼を一味として捕らえて禁獄した。事件はこれに留まらず、左大臣・源高明が謀反に加担していたとされ、太宰員外権帥に左遷することが決定した。高明は長男・忠賢とともに出家して京に留まるよう願うが許されず、26日、邸を検非違使に包囲されて捕らえられ、九州へ流された。
 密告の功績により源満仲と藤原善時はそれぞれ位を進められた。また、左大臣には師尹が代わり、右大臣には大納言藤原在衡が昇任した。一方、橘繁延は土佐、蓮茂は佐渡、藤原千晴は隠岐にそれぞれ流され、さらに源連、平貞節の追討が諸国へ命じられた。 

源 周子 源 生

 平安時代中期の女官・歌人。醍醐天皇の更衣。近江更衣と呼ばれた。
 嵯峨天皇の曾孫で祖父は源定。元慶8年(884年)賜姓源氏に対する時服月俸を受ける。延喜3年(903年)1月の内宴で無位の周子は陪膳に奉仕し、禁色を許された。醍醐天皇との間に時明親王,盛明親王,勤子内親王,都子内親王,雅子内親王,源高明,源兼子の3男4女を儲けた。一説には、敏子内親王も彼女が産んだのではないかともいわれている。歌人としても優れ、『後撰和歌集』『新古今和歌集』『玉葉和歌集』などの勅撰和歌集に詠歌が載るほか、延長8年(930年)頃にも「近江御息所歌合」を開いたとも伝えられる。 

 承和5年(838年)无位から従四位上に直叙される。承和10年(843年)加賀守に任ぜられると、承和12年(845年)備後守、嘉祥3年(850年)山城守と仁明朝後半に地方官を歴任する。文徳朝では、嘉祥4年(851年)左京大夫、斉衡2年(855年)治部卿と京官を歴任し、この間に美作守も兼ねている。
 天安2年(858年)清和天皇の即位に伴って正四位下に昇る。貞観2年(860年)大蔵卿を経て、貞観6年(864年)参議に任ぜられて公卿に列す。議政官として引き続き大蔵卿を兼ね、貞観11年(869年)には兼職が右衛門督に遷った。
 貞観14年(872年)、数ヶ月に亘って病に伏し(一説では眼病)遂には落髪して僧侶となり、8月2日に卒去。享年52。