弘仁5年(814年)に兄弟の信・常とともに源朝臣姓を賜与され臣籍降下。天長5年(828年)に無位から従四位下に直叙。宮内卿,治部卿,刑部卿等を歴任し、承和9年(842年)に同い年の弟・常に遅れること10年にして参議として公卿に列す。嘉祥元年(848年)中納言に昇進。その後官途では弟の定や安倍安仁の後塵を拝すが、仁寿元年(851年)正三位、貞観元年(859年)には大納言に至った。貞観5年(863年)当時流行した咳逆病によって、弟の定と相前後して死去した。 性格は温厚で仁愛の心が深かった。政務に通暁しており決断力もあった。幼い頃から明敏で経書や史書を好んで読んだ。嵯峨天皇の皇子の中では最も好学心があり、天皇から特別に経書を賜与されるなど、他の皇子と比べて家には非常に多くの賜与された書籍があったが、読書に倦むようなことはなかったという。管弦も好み、公事を終えて退庁したあとは、琴や読書を楽しみとしていた。また、隷書にも秀でた。
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元慶8年(884年)従五位下・内蔵助に叙任される。翌元慶9年(885年)民部少輔ついで右衛門権佐に任ぜられる。仁和2年(886年)右少弁となる。右少弁在任中には宇多天皇の五位蔵人を務めた。 仁和3年(887年)近江権守を兼任。仁和4年(888年)従五位上に昇り、侍従,大蔵大輔,右近衛少将,左少弁を兼任。寛平4年(892年)正五位上・右近衛権中将に叙任され、さらに翌年に従四位下・伊予守に叙任され、権左中弁ついで右大弁となり、蔵人頭に補された。同年中に修理大夫・右兵衛督を兼ねる。翌年にはさらに播磨守・左近衛中将・侍従を兼ねた。 寛平7年(895年)参議に任ぜられ公卿に列す。寛平9年(897年)左大弁に転じて従四位下に叙される。昌泰2年(899年)従三位・中納言に叙任され民部卿を兼任した。 延喜2年(902年)正月19日薨去。享年55。
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