嵯峨源氏

K316:嵯峨天皇  源 常/寛/明 G003:源 常/寛/明

源 常 源 興

 東三条左大臣とも呼ばれる。  弘仁5年(814年)、信,弘とともに源朝臣姓を賜り、左京一条坊に貫付せられた。父である嵯峨天皇は、常の「操行深沈、風神静爽」なのを見て、特に寵愛したと言う。
天長5年(828年)17歳で従四位下、兵部卿に直叙され同八年従三位、翌年参議を経ずに中納言に昇進した。21歳の若さであった。その後、正三位で左近衛大将を兼ね、承和5年(838年)に大納言、同7年に右大臣・東宮傅、同11年には左大臣と順調に昇っていき、その後10年にあまりにわたって政治の首班にあり兄弟の信・定・弘とともに一大政治勢力をなした。嘉祥3年(850年)に正二位となる。
 常は「容儀閑雅、言論和順」であり、人材を見抜くのに優れ才能の士を推引し、讒侫の徒を遠ざけ、「丞相の器」と評された。承和7年(841年)には藤原緒嗣らと『日本後紀』を完成させているほか、歌人としても『古今和歌集』にその詠歌を載せる。斉衡元年(854年)に薨去。死後、贈正一位。 

 承和12年(845年)正月に無位より従五位下に直叙され、仁寿元年(851年)従五位上に昇叙され、以後侍従・左右兵衛佐などを歴任し、斉衡2年(855年)正五位下になる。天安元年(857年)4月右近中将となり、翌年の天安2年(858年)に従四位下になり、貞観5年(863年)従四位上に進んだが、この間に相模国,筑前国,美作国,伊勢国の国守を兼任した。また貞観8年(866年)11月より貞観11年(869年)2月まで蔵人頭をも務めた。貞観14年(872年)11月19日、従四位上右近中将兼阿波守で卒去した。享年45。卒伝には「美姿質、能挙止。外貌雄峻、内性寛柔」とあり、幼くして学ぶことなく百氏の書を諳んじていたという。 
源 頴 源 明

 嘉祥3年(850年)正月に従五位下に叙爵し、同年の御斎会では百済王教福とともに元興寺使を務める。天安元年(857年)侍従に任ぜられると、文徳朝末にかけて宮内少輔,刑部少輔を歴任する。
  清和朝に入ると、天安3年(859年)伊予権介次いで備前介と地方官に転じ、同年従五位上に昇叙される。また同年12月には、かつて刑部少輔を務めていた際に、前越後守・伴竜男や前豊後守・石川宗継ら多数の罪人を濫りに放免していたことが問題となるが、頴をはじめ刑部省の諸官人は刑部大丞・丹墀真総に唆されただけで同情の余地があるとして罪を免れている。
  その後、貞観7年(865年)民部少輔に任ぜられ一時的に京官に復すが、翌貞観8年(866年)には美濃守に転じ、のち信濃守,大和守を務めるなど、清和朝では主に地方官を務め、位階は正五位下に至った。
  陽成朝に入り、元慶元年(877年)従四位下に昇叙されるが、翌元慶2年(878年)には大和守から但馬権守に転じている。元慶3年(879年)10月29日卒去。 

 左大臣源常の同母弟。出家後の法名は素然。横川宰相入道とも称した。室は橘氏公の娘。子に舒、建、頴、遠がいる。
  弘仁5年(814年)5月の勅により源氏を賜姓され、異母兄源信を戸主として左京一条一坊に付貫された。父嵯峨天皇の勉学奨励の勅を受けて学問に励み、諸子百家をほぼ閲覧した。性朗悟にして才学あり、天長9年(832年)正月従四位上に叙されて大学頭に任官し、以後は加賀守,近江守、播磨守などを兼任した。承和9年(842年)7月嵯峨上皇が崩御すると服喪のため解官したが、大学頭に復任後は左京大夫,播磨守,刑部卿,越中守などを兼任し、阿波守へと転任したのち嘉祥2年(849年)2月参議となった。参議になるまでの官歴のほとんどを大学頭として過ごし、兼任の地方官は遥任だった。父である嵯峨上皇の崩御以後、人生の無常を感じたらしく仏道に深く帰依し、嘉祥3年(850年)、遂に出家して素然と名乗り山中で生涯を終えた。当時の人々はその節操の高さを慕ったという。嵯峨源氏の中には趣味や学問に生きることを選んだ者も多いが、明はその典型的な一人だった。