嵯峨源氏

K316:嵯峨天皇  源 信 G001:源 信

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源 信 春 尋

 初代源氏長者。北辺大臣と号した。弘仁5年(814年)に弟の弘・常とともに源朝臣の姓を賜与され臣籍降下し、左京一条坊に貫付せられて戸主となった。天長2年(825年)に無位から従四位上に直叙され、翌天長3年(826年)に侍従、治部卿,播磨権守を経て天長8年(831年)7月に22歳で参議に任ぜられ、同年正月に従三位(非参議)に叙せられた弟の常に半年遅れて公卿に列す。
  天長10年(833年)仁明天皇の即位後まもなく従三位に叙せられる。仁明朝では天皇の外伯父・橘氏公や、嵯峨上皇の女婿でその信頼が非常に篤かった藤原良房には官位で越えられるものの順調な昇進を果たし、承和9年(842年)に発生した承和の変の直後に中納言、承和15年(848年)大納言に任ぜられる。文徳朝の斉衡4年(857年)良房の太政大臣任官に伴い左大臣に昇進。
  貞観8年(866年)応天門の変において不仲であった大納言・伴善男の誣告により、応天門放火の嫌疑を受けるが、太政大臣・良房の弁護により無実となる。この際朝廷の兵に邸を包囲され、絶望した家の人々が嘆き悲しむ様子が『伴大納言絵詞』に描かれている。この事件は信に大きな精神的打撃を与え、以後門を閉じて篭居していた。貞観10年閏12月(869年2月)、気分転換の為摂津国河辺郡に狩猟に出かけるが、その最中に落馬して深泥に陥った。救い出されたが意識不明のまま数日後に薨去した。翌貞観11年(869年)3月正一位を贈位された。

 知的障害があったため、父の信によって系譜から削除されたが、のちに兄弟の平・恭・保らの奏請により春朝臣姓を賜与された(『日本三代実録』元慶5年6月9日条)。