清和源氏

G512:安藤家重  源 経基 ― 源 頼信 ― 村上頼清 ― 村上家宗 ― 安藤家重 ― 安藤重信 G513:安藤重信

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安藤重信 安藤重長

 徳川家康に仕え、天正12年(1584年)の小牧長久手の戦い、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して真田昌幸が守る信濃国上田城攻めに参加した。   
慶長16年(1611年)、奉行に任じられ、翌年12月には下総国小見川に2万石の所領を与えられ大名となった。慶長19年(1614年)、大久保長安事件で大久保忠隣が改易されたとき、高力忠房と共に小田原城の受け取りを務めた。
 同年、冬からの大坂の役には冬,夏とも参戦し、夏の陣では大野治房率いる豊臣軍と戦ったが、敵の猛攻の前に敗退した。元和5年(1619年)、上野国高崎5万6,000石及び近江国山上藩1万石へ加増移封された。同年、福島正則が改易されたとき、広島城に向かって永井直勝とともにその後処理を担当した。元和7年(1621年)6月29日、65歳で死去。家督は養子・重長が継いだ。墓地は東京都杉並区永福にある長福寺(栖岸院)。
 怪力伝説があり、前述の広島城受け取りの際、船から落ちた共の者を掴んで助けた時に、ちょっと掴んだだけなのに掴まれた部分が痣になって後々まで残ったとか、小姓にたくさんの鎧や銃を担がせ、その小姓を碁盤に乗せ、その碁盤を担いで城内を一周したという伝説もある。

 慶長14年(1609年)に徳川家康に拝謁。大坂の役に参戦し、元和5年(1619年)、上野国板畠2千石を賜う。元和7年(1621年)、祖父・重信の死去により家督を相続。寛永9年(1632年)には改易となった徳川忠長を預かり、高崎城に幽閉した。その後、書院番頭,寺社奉行,奏者番などを歴任。明暦3年(1657年)に死去したが、嫡子・重之が既に死去していたため、家督は嫡孫・安藤重博が継いだ。

 

安藤信友 安藤信正

 天和元年(1681年)10月28日、11歳のときに初めて将軍綱吉に拝謁する。貞享2年(1685年)、長門守に叙任。元禄11年(1698年)8月9日に父が死去し、10月3日、幕府の許しを得て備中松山藩(6万5000石)藩主の地位を継いだ。宝永元年(1704年)に奏者番となり、同6年(1709年)には寺社奉行を兼任する。宝永8年(1711年)2月15日、美濃加納藩に転封される。正徳3年(1713年)に寺社奉行を辞めるが、享保2年(1717年)に再び寺社奉行となる。翌年、大坂城代となり、享保7年(1722年)、8代将軍・徳川吉宗から老中に任じられ、享保の改革の推進に関与した。
 享保12年(1727年)6月7日、跡継ぎとなるべき養子の信周が死去した後、同月22日、信周の長男信尹を跡継ぎとすることを幕府に許される。享保17年(1732年)6月に病に伏せ、7月25日に62歳で死去し、曾祖父重長が中興開基した江戸麹町の栖岸院に葬られた。

 安政5年(1858年)8月2日、寺社奉行加役を経て、大老・井伊直弼の下で若年寄となる。安政7年(1860年)には老中となるが、直後の桜田門外の変で直弼が暗殺される。信正は紆余曲折を経て事態を収拾した後に、直弼に罷免されていた久世広周を老中に再任させ、以後この2人が幕政を事実上取り仕切る最高権力者となった(久世・安藤政権)。
 信正は安政の大獄を起こした井伊直弼の強硬路線を否定し、穏健政策を取ることで朝幕関係を深めていこうと考えた(公武合体)。文久2年(1862年)には、直弼の跡を継いで彦根藩主となった井伊直憲に亡父の責任を取らせる形で10万石を減封させている。信正の公武合体策の一つが、孝明天皇の妹・和宮の14代将軍・徳川家茂への降嫁の実現であった。長州藩士・長井雅楽の『航海遠略策』を承認したのも公武合体の一環であった。
 また、この頃になると日本国内では攘夷論の高揚など政情不安からアメリカ公使館通訳ヘンリー・ヒュースケン殺害事件などの問題が起こっていたが、当時はアメリカが南北戦争で日本に介入できなかったこともあって、信正は無難にこれを処理することに成功した。また、諸外国と条約を結んだことから問題となっていた金貨流出問題や物価高騰問題などに対しても防止政策を行うなど、幕末の政局安定化に努めた。
 文久2年(1862年)1月15日、和宮降嫁問題によって反幕感情を抱いていた尊王攘夷派の水戸浪士の襲撃を受け、背中に負傷したが一命は取り止めた(坂下門外の変)。
 しかし、一部の幕閣から「背中に傷を受けるというのは、武士の風上にも置けぬ」と非難の声が上がる。その上、女性問題やアメリカのタウンゼント・ハリスとの収賄問題などが周囲から囁かれ、4月11日に老中を罷免され、溜間詰格への敬遠を余儀なくされた(6月2日に久世も罷免され、長井も藩論が攘夷論に転換して失脚した)。その後、隠居,謹慎を命じられ、所領のうち2万石を減封された。跡を長男・信民が継いだが、翌文久3年(1863年)8月10日に死去したため、甥の信勇を次の藩主に選んだ。
 大政奉還を経て慶応4年(1868年)に明治政府が発足すると、若年の信勇に代わって本領での藩政を指揮した。奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦ったが敗れ、居城の磐城平城は落城した。信正も降伏、謹慎を余儀なくされた。その後、明治2年(1869年)9月10日に永蟄居の処分が解かれた。
 明治4年(1871年)10月8日に死去した。墓所は、福島県いわき市平古鍛冶町の川嶋山楢騎士院良善寺。