当初は小槻山姓(小槻山君)を名乗っていたが、のちに阿保姓(阿保朝臣)を賜与され改姓している。しかしながら、子の小槻当平以降は「小槻宿禰」に改姓しており、当平と糸平が姓を朝臣から格下の宿禰に落とした理由は定かでなく、彼らが今雄の実子ではなかったのではないかとする説がある。 小槻山君は近江国栗太郡(現滋賀県草津市・栗東市一帯)を拠点とする豪族。仁寿元年(851年)今雄は雄琴・苗鹿の地を拝領した。雄琴の地名は、今雄の邸宅から琴の音がよく聞こえたためとされる。貞観5年(863年)苗鹿の地に法光寺を創建した(一説には、それ以前に最澄の開基ともされる)。 貞観15年(873年)正六位上・左少史・算博士である際、弟の有緒らと共に平安京左京四条三坊に居を移した。貞観17年(875年)有緒や従兄弟の良眞と共に阿保朝臣姓を賜与され改姓した。 今雄らは算道を習得することにより太政官の史の官職を得て、中央への進出を果たしたものと考えられる。この算博士・史の職は今雄の子阿保経覧・小槻当平・小槻糸平も歴任し、その後は当平の子孫に継承されて小槻氏は官務家として発展していく。 元慶8年(884年)7月7日に没する。死後法光寺裏山の円墳に葬られた。また、子の当平により雄琴神社に今雄宿禰命として祀られている。
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主計権少属・民部録を経て、昌泰2年(899年)右少史に任ぜられると、父・今雄と同じく太政官の史を歴任し、延喜5年(905年)左大史に至る。またこの間、算博士を兼任している。 延喜7年(907年)外従五位下・主計助に叙任され、延喜11年(911年)主税頭に転じた。延喜12年(912年)正月7日に内位の従五位下に叙せられるが、同月17日に卒去。 勅撰歌人として、和歌作品が『古今和歌集』『新拾遺和歌集』に1首ずつ採録されている。また、延喜4年(904年)の日本紀講筵の竟宴に参加し、『日本紀竟宴和歌』にも和歌作品が収められている。
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