<神皇系氏族>天神系

KD07:入西資行  大部豊日 ― 大部船瀬足尼 ― 児玉惟行 ― 児玉弘行 ― 入西資行 ― 小代遠弘 KD08:小代遠弘

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小代行平 小代親泰

 鎌倉幕府の御家人として源頼朝に仕え、一ノ谷の戦いや奥州合戦に従軍。比企能員の変では北条時政邸を警護している。建仁3年(1203年)には越後国青木と中河保,安芸国壬生荘の地頭に任ぜられている。行平と妻の間の実子弘家が早世したため、兄の子である俊平を養子として小代郷を継がせた。
 鎌倉時代末期に行平の子孫である小代伊重が書いた置文によると、行平死後、妻と養子俊平との間で家督争いが起こる。妻は実家の兄が誅せられ、実家の態勢が安定していない事を危惧し、河越氏から養子を取って家督を継がせるべく頼朝から与えられた下文などの重要書類を俊平に返却せずに養子に与え実家の援助をしようとした。家督は結局俊平が継いでいる。
 置文には小代の岡の屋敷は源義平が大蔵合戦の際、屋敷を造って住んでいた場所なので義平を御霊として祀っており、一族は信心するよう書いている。また行平以来の先祖の栄誉を語りながら、伊重の代に所領を没収され悲境に立った小代家の現状を嘆き、子孫に訓戒を述べている。

 天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が敗死し、龍造寺氏が一気に衰退すると、小代親泰は島津氏に下り、大友氏攻めに加わる。
 しかし、翌天正13年(1585年)に豊臣秀吉が大友氏救援を口実にいわゆる九州征伐に乗り出すと、小代親泰は周辺国人らと同様、秀吉の下に参陣し、大幅に減らされてものの所領安堵状を交付された。肥後に佐々成政が新領主として下向して来たが、肥後国人の多くが所領を削られた。これに不満を抱く国人たちは肥後国人一揆を起す。一揆は結局鎮圧され、多くの国人が処分され、佐々成政も改易される。小代親泰は一揆発生時、大坂にいたため責任を問われることはなかった。肥後は南部を小西行長、北部を加藤清正に分割統治されることとなる。小代親泰は加藤家に仕官し、4135石を与えられ、重臣として遇された。寛永9年(1632年)に加藤家が改易され、細川家が新領主として入府すると、小代氏は細川家に仕えた。