清和源氏

G603:浦野重遠  源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 ― 山田重満 ― 足助重長 G605:足助重長

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足助重氏 足助重春 足助重範
 鎌倉後期の武士。三河国加茂郡足助荘の在地領主。霜月騒動(1285)で所領を没収されて以降、反北条的立場を貫いていた足助氏の一員として討幕運動に参加。新田義貞の鎌倉攻撃に加わり戦死した。  建武3年(1336)足利尊氏が京都に入り、光明天皇を立て、後醍醐天皇は吉野に移った。南北朝時代の始まりであった。このころ、足助一族は、重春が重範の子重政を助けて一族を統率していたと考えられている。そして、征東将軍宗良親王を迎えようとしたが果たさなかった。しかし、興国4年(1343)頃、重政が成人すると、重春は足助を去り安芸国へ移住している。このころから一族の一部が各地へ離散していき、各地の足助氏の祖となったことが知られる。

 三河国加茂郡足助庄を拠点とした足助氏の七代目惣領。元弘の乱では後醍醐天皇に味方し、弓の名手としても知られる重範は、笠置山で幕府の大軍を相手に荒尾九郎,弥五郎兄弟を遠矢で討ち取るなどして奮戦した。しかし、落城後に捕えられ、京都六条河原で処刑された。
 足助氏の勢力は重範の死後衰退を余儀なくされたようで、その居城であった飯盛城には鈴木氏が居住するようになる。一説によれば、鈴木重則は足助重範の娘婿となり所領の譲りをうけ、足助氏を称したともされるが確証はない。

足助重治 足助重信
 足助重治は、建武新政崩壊後、征西将軍懐良親王に従って九州に赴き、菊池一族とともに各地を転戦、後醍醐天皇の宸筆の感状を賜っている。1383年に九州で没した。  鎌倉幕府攻撃に参加した。このとき、足助太郎重信、賢尊、孫三郎重成が討死にしている。