高句麗系

KKR2:高句麗王朝2

 背奈福徳/高麗若光 CM01:背奈福徳/高麗若光

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背奈福徳 高倉福信

 第19代高句麗王・広開土王の後裔で、その7世孫の延興王の子孫とする。また、第27代高句麗王・栄留王の子とする系図がある。
 660年(唐の年号では顕慶5年)に唐の将軍・李勣により高句麗の平壌城が陥落すると、福徳は日本(当時は倭)に亡命した。716年(霊亀2)、駿河,甲斐,相模,上総,下総,常陸,下野の7国の1799人の高句麗人を移して武蔵国に高麗郡が置かれた(埼玉県飯能市,日高町一帯)。武蔵高麗氏の始祖は若光といわれ、703年(大宝3)に王姓を与えられた。高麗神社(日高町)社家高麗氏にはその系図が伝わる。

 武蔵国高麗郡出身だが、少年のころに叔父・背奈行文に従って上京する。上京して間もないころ、相撲の評判が朝廷にまで届き、召されて内豎所に近侍することを命ぜられる。天平15年(743年)には正五位下・春宮亮に叙任され、皇太子・阿倍内親王に仕えている。天平19年(747年)には同族7名と共に公姓から王(こにきし)姓に改姓する。聖武朝では天皇の寵遇を受けて順調に昇進を果たしている。
 天平勝宝元年(749年)7月に阿倍内親王が即位(孝謙天皇)すると、急速に昇進を果たし、天平勝宝2年(750年)同族5名と共に背奈王から高麗朝臣に改姓。
 系譜関係ははっきりしないものの、福信は霊亀2年(716年)の高麗郡設置時の郡司であった高麗若光と同族と考えられており、福信自身も同国内に大きな影響力を持っていたとみられている。天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱においては、反乱実行時に敵側となるのを防ぐために、橘奈良麻呂派の賀茂角足が事前に武勇に優れた者を屋敷に呼んで酒盛りをしたが、福信は坂上苅田麻呂らの武人と共に招待された。結局、福信は藤原仲麻呂に従って、橘奈良麻呂派の小野東人・答本忠節らを追捕し、左衛士府に拘禁している。
 天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は明らかではない。道鏡政権下では造宮卿に叙任され公卿に列す。光仁朝でも引き続き造宮卿を務め、宝亀4年(773年)に楊梅宮を完成させた功績により、嫡男・石麻呂が従五位下に叙爵された。宝亀10年(779年)古い習わしで使用している高麗の号を除きたい旨上表し、高倉朝臣に改姓する。
 延暦4年(785年)致仕を上表し、許されて桓武天皇より杖と夜着を贈られた。延暦8年(789年)10月8日薨去。享年81。
 渡来人系の地方豪族の出身でありながら孝謙(称徳)天皇の側近として、橘諸兄,藤原仲麻呂,道鏡の各政権で要職を占めながら失脚することなく桓武天皇の時代まで活躍した異色の人物であった。

背奈行文 高麗大山

 高句麗系渡来人を集めて霊亀2年(716年)に新設された武蔵国高麗郡に居住していたが、のちに上洛して学問を生かして朝廷に仕えた。養老5年(721年)正七位上・明経第二博士のとき、学業優秀として賞された。神亀4年(727年)正六位上から従五位下に昇叙される。
 消奈行文大夫の名で『万葉集』に1首と『懐風藻』に五言詩を2首残している。

 天平19年(747年)従兄弟の背奈福信,弟の広山らと共に王(こにきし)姓を賜与される。天平勝宝2年(750年)一族と共に高麗朝臣に改姓する。天平勝宝4年(752年)遣唐使判官として唐に派遣され、天平勝宝6年(754年)に帰国し正六位上から従五位下に昇叙される。
 天平宝字5年(761年)10月に武蔵介に任ぜられ、まもなく遣高麗大使(遣渤海使)となり、翌天平宝字6年(762年)3月に副使・伊吉益麻呂らと渤海に渡る。しかし、渤海から渤海使・王新福を伴っての帰途船上で病を得て、佐利翼津まで帰り着いたところで没する。最終官位は遣高麗大使従五位下。同年12月に二階の昇叙を受けて正五位下を贈位された。

高倉殿継 高麗広山

 宝亀8年(777年)訪日していた渤海使・史都蒙の帰国にあたり、殿継は送高麗使に任命された。同年、殿継は渤海に渡るが、遠く辺境の地へ漂着して船が破損してしまう。しかし渤海より船2艘を与えられ、翌宝亀9年(778年)9月に張仙寿を随行して帰国し越前国三国港に到着、同年10月には従五位下に叙爵された。宝亀10年(779年)同族の高麗福信らと共に高麗朝臣姓から高倉朝臣姓に改姓している。宝亀11年(780年)治部少輔に任ぜられる。

 桓武朝に入ると、大判事,下総介,玄蕃頭,皇后宮亮,大和介,主計頭と内外の諸官を歴任する。従五位上に叙せられた後、延暦23年(804年)駿河守に転じると、延暦25年(806年)肥後守と、桓武朝末から平城朝にかけて地方官を務めた。

 聖武朝の天平19年(747年)従兄弟の背奈福信,兄の背奈大山らとともに公姓から王姓に改姓する。天平21年(749年)正月から閏5月にかけて、大寺へ139日の上日をして写経・礼仏を行った。天平勝宝2年(750年)一族と共に高麗朝臣に改姓する。
 天平宝字6年(762年)4月に遣唐使用の船1隻が安芸国から難波の江口に到着した際、船が座礁・破損したため遣唐使節の人選・人員を見直すことになり、藤原田麻呂に替わって広山が副使に任ぜられた(大使は中臣鷹主)。同年夏に唐への渡航を試みるが風浪に恵まれて失敗し、結局8月になって遣唐使の派遣は中止となった。なお、同年には遣高麗使(遣渤海使)の大使を務めていた兄・大山が渤海からの帰国途上で没している。
 淳仁朝末の天平宝字8年(764年)外従五位下・右虎賁衛佐に叙任される。その後の動静は伝わらず、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱に巻き込まれて失脚または没したか。

高麗若光 高麗聖雲

 『日本書紀』天智天皇5年(666年)10月26日条に、高句麗から日本に派遣された使節の一員に玄武若光なる人物がいたとの記述がある。ついで『続日本紀』大宝3年(703年)4月4日条に、従五位下高麗若光に王(こにきし)の姓を与えたとの記述がある。『日本書紀』の玄武若光と『続日本紀』の高麗若光が同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになるが、傍証がないため確認できていない。若光のその後の履歴、また若光以外の高麗王氏の人々について六国史は何も記録を残していない。
 霊亀2年(716年)、武蔵国に東海道7ヶ国から1799人の高句麗人を移住させ、高麗郡を設置しているが、若光もその一員として移住したものと推定されている。

 高句麗王族の高麗王若光の3男とされる。寺念僧・勝楽上人の弟子。
 高句麗の僧・勝楽は聖雲の父とされる高麗若光を弔うため、高句麗から自ら携えてきた念持仏「聖天歓喜仏」を本尊とする寺院を建立しようとしたが、天平宝字3年(751年)に死去した。勝楽の弟子・聖雲は、やはり勝楽の弟子となった聖雲の甥の弘仁とともにその遺志を継ぎ、法相宗の聖天院勝楽寺を建立し、師を境内に埋葬した。

 

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