清和源氏

G530:井上光純  源 経基 ― 源 頼信 ― 井上頼季 ― 井上光純 ― 井上光兼 G531:井上光兼

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井上光兼 井上元兼

 光兼の祖父・光教が毛利豊元の妹と婚姻して以降、毛利氏と密接な関係を持つようになり、光兼も毛利氏当主に代々仕えた。
 永正4年(1507年)、光兼の邸宅に一人の客僧が訪れて念仏の大事を説いたが、当時11歳の毛利元就が父・弘元の側室であった杉大方に伴われて光兼の邸宅を訪れ、念仏の伝授を受けている。これ以後、元就は毎朝朝日を拝んで念仏を十篇ずつ唱え、後生の事や今生の願いを日輪に対して祈祷することを日課とした。
 天文19年(1550年)7月12日から7月13日にかけて、元就による安芸井上氏粛清の際に子の元兼や孫の就兼、就澄をはじめとした安芸井上氏の一族30余名が誅殺されたが、光兼は忠誠心の厚さから誅殺を免れ、翌年の天文20年(1551年)8月5日に死去、享年89。

 もとは毛利氏と対等関係にある国人であったが、毛利氏との縁戚関係を経て一門の多くが毛利弘元の家臣団に組み込まれ、弘元に知行を給されて、家中においては近習同様に仕えることとなった。
 元兼は主に財政面において活躍した。また、大永3年(1523年)、毛利氏の宿老15名が連署起請文を提出して弘元の子・毛利元就の家督相続を要請した際には、井上就在,元盛,元貞,元吉ら他の井上一族と共に署名するなど、元就の補佐を務めて大いに功績をあげた。しかし、一族の横暴が顕著となり、天文19年(1550年)に元就によって粛清が行われた。
 なお、元兼初め井上一族が横柄な振る舞いをしていたことは、元就自身による書状の中でも言及,述懐されており、専横があったことは確かなようである。しかし、それらの書状の多くは井上一族粛清から10年以上経ってから書かれたものが多く、多少の潤色が加えられていた可能性もある。

井上就兼 井上就澄

 毛利氏において重要な位置を占める一族となったが、権勢を増すにつれ、就兼の父・元兼をはじめとして毛利興元の死後30余年に渡って傍若無人な振舞いも顕著になった。
 ある時、井上就兼領内の商人が他領の河原者と喧嘩して殺害されてしまう事件が起きた。このことを知った就兼は、毛利隆元領内の「豕田(いのこだ)」という河原者が下手人であると断じ、隆元や元就の許可を受けることもなく多勢で押し寄せて豕田を殺害し、その後も少しも憚ることがなかったという。
 安芸井上氏をそのままにしておくことは毛利氏の将来の禍根となると元就は判断。子の元春と隆景の吉川氏,小早川氏相続問題が概ね解決したことで安芸井上氏粛清の好機であると判断し、隆元に命じて大内氏家臣の小原隆言を通じて、予め大内義隆の内諾を得た上で、密かに安芸井上氏粛清の準備を進めた。
 天文19年(1550年)7月12日、井上元有が安芸国竹原において小早川隆景に殺害されたことを皮切りに、安芸井上氏の粛清が始まった。就兼は、翌7月13日に元就の呼び出しを受けて吉田郡山城に来たところを元就の命を受けた桂就延によって殺害された。就兼の殺害と同時に、福原貞俊と桂元澄が300余騎を率いて井上元兼の屋敷を襲撃。元兼の屋敷は包囲され、屋敷にいた元兼と就澄は防戦したものの力尽きて自害した。さらに、井上元有の子の井上与四郎,元有の弟の井上元重,元重の子の井上就義らはそれぞれ各人の居宅で誅殺されており、最終的に安芸井上氏の一族のうち30余名が粛清されることとなった。
 元兼や就兼らの誅殺により、安芸井上氏の本家は元兼の弟・元光が元就の命を受けて同年8月1日に相続した。

 毛利氏において重要な位置を占める一族となったが、権勢を増すにつれ、毛利興元の死後30余年に渡って傍若無人な振る舞いが顕著となり、元就は安芸井上氏の粛清の機をねらった。
 天文年間に安芸国と備後国の経略が着々と進行し、吉川元春と小早川隆景の吉川氏,小早川氏相続問題が概ね解決したことで安芸井上氏粛清の好機であると元就は判断。毛利隆元に命じて大内氏家臣の小原隆言を通じて、予め大内義隆の内諾を得た上で、密かに安芸井上氏粛清の準備を進めた。
 天文19年(1550年)7月12日、井上元有が安芸国竹原において小早川隆景に殺害された事を皮切りに安芸井上氏の粛清が始まり、翌7月13日、兄の就兼は元就の呼び出しを受けて吉田郡山城に来たところを、元就の命を受けた桂就延によって殺害された。
 就兼の殺害と同時に、福原貞俊と桂元澄が300余騎を率いて井上元兼の屋敷を襲撃。元兼の屋敷は包囲され、屋敷にいた元兼と就澄は防戦したものの力尽きて自害した。さらに、井上元有の子の井上与四郎,元有の弟の井上元重,元重の子の井上就義らはそれぞれ各人の居宅で誅殺されており、最終的に安芸井上氏の一族のうち30余名が粛清されることとなった。

井上元光 井上元義

 永正14年(1517年)10月22日の有田中井手の戦いでは元光も毛利元就に従って出陣。山下小溝において槍働きによって前原某と山縣備中守を討ち取る武功を挙げ、毛利幸松丸と毛利元就の二人からそれぞれ感状を与えられた。
 天文9年(1540年)から天文10年(1541年)にかけての吉田郡山城の戦いにおいても手柄を立て、天文9年9月13日に元就から感状を与えられている。また、天文12年(1543年)から天文13年(1544年)にかけて行われた大内義隆の月山富田城の戦いにも元就に従って出陣し、天文13年4月12日の出雲国月山富田城の塩谷口の戦いでは弓矢で戦功を挙げ、元就・隆元連署の感状を与えられた。
 天文19年(1550年)、兄の井上元兼をはじめとした安芸井上氏の一族30余名が、毛利元就の命で誅殺されたが、元光は元就の妹婿であったためか粛清を免れ、同年8月1日に安芸井上氏の本家を相続。この時に名を「元在」から「元光」と改めている。同年12月21日には安芸国高ノ峯城を預けられ、450貫を宛行われている。
 永禄10年(1567年)、79歳で死去。後を子の元義が継いだ。

 天文19年(1550年)、伯父の井上元兼をはじめとした安芸井上氏の一族30余名が、毛利元就の命で誅殺されたが、父・元光は元就の妹婿であったこともあって粛清を免れ、同年8月1日に安芸井上氏の本家を相続した。
 永禄10年(1567年)、父・元光が死去し、その後を継いだ。
 天正12年(1584年)の伊予国における合戦で中良左衛門三郎が敵数人を討ち取る武功をあげたため、同年6月21日に輝元から、中良左衛門三郎の忠誠を賞するよう命じられる。この時、元義は伊予に出陣しておらず、嫡男の元重が代理として出陣していた。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には徳川家康の命を受けた大久保長安から味方になるよう誘われたが、家康の書状と大久保長安の添状を輝元に見せた上で破り捨て、異心なきことを示した。これを受けて、同年10月11日に毛利秀元は元義・元重父子の忠誠に感謝する書状を送っている。

井上元貞 井上就貞

 井上勝光の子で井上光兼の弟であるとする説と、井上光兼の子で井上元兼の弟であるとする説の2説がある。
 永正14年(1517年)10月22日の有田中井手の戦いで毛利元就に従って出陣。この戦いで元貞の家臣である市川彦二郎と田理助十郎が敵の首を討ち取り、田理助右衛門や中間の与三郎,四郎右衛門,四郎五郎が奮戦し、彦右衛門が討死したことで、同年10月28日に毛利氏当主の毛利幸松丸から2通の感状を与えられている。
 永正15年(1518年)8月30日、毛利元就に従って元貞も後国世羅郡赤屋に出陣し、同年10月26日に元貞は幸松丸から感状を与えられた。
 大永3年(1523年)に幸松丸が死去した際には、毛利氏の重臣15名とともに連署状を出して元就に家督相続を要請している。
 大永5年(1525年)、大内氏の重臣・陶興房が毛利氏の重臣である志道広良を通じて、元貞と粟屋元秀に元就が大内氏に味方するよう説得することを依頼してきたため、元貞と元秀の両名は元就の説得にあたった。この説得により毛利氏は尼子氏を離反し、大内氏に属することとなる。
 享禄2年(1529年)12月13日、元就により「兵庫助」の官途名を与えられ、享禄3年(1530年)7月24日の安芸国山縣での合戦においては負傷しつつも奮戦し戦功を挙げ、翌日に元就から感状を与えられた。
 元貞の没年は不明であるが、元貞の死後は子の元継が跡を継いだ。

 毛利元就に仕え、合戦でたびたび武功を挙げて感状を与えられた。また、山口町奉行に任じられている。
 永禄12年(1569年)7月、吉川元春や小早川隆景が率いる毛利軍と大友氏の戦い(多々良浜の戦い)が北九州で続く中、尼子勝久や山中幸盛らの尼子氏再興軍が出雲国へ侵入した。さらに同年10月11日に大友宗麟の客将だった大内輝弘が宗麟の後援を受けて周防国へ侵攻した(大内輝弘の乱)。
 翌10月12日、輝弘は秋穂から山口へ侵攻したため、わずかな兵を率いて就貞が平野口を、信常元実が小郡口を守備し、就貞の軍は糸根峠で大内軍と遭遇して激戦を繰り広げたが、数に勝る大内軍に衆寡敵せず、就貞は戦死した。
 元就と輝元は就貞の死を大いに嘆き、元就は就貞の兄・元継へたびたびそのことを述べており、元亀元年(1570年)5月8日に就貞の娘に周防国吉敷郡小鯖のうちの15石を与えた。また、就貞には男子がいなかったため、兄・元継の子である元忠を就貞の娘と婚姻させ、天正6年(1578年)1月23日に就貞の家督と所領を相続させた。