遠江に生まれる。母が徳川秀忠の乳母であったため、正就も早くから秀忠に近侍した。慶長20年(1615年)1月、1万石加増と同時に小姓組番頭に就任した。 元和8年(1622年)、5万2,500石をもって横須賀藩主となる。この頃より江戸幕府老中職につく。 旗本で幕府目付・豊島信満は、正就の嫡子・正利と大坂町奉行・島田直時の娘とを縁組し、仲人を務めることに約定していた。しかし、3代将軍・徳川家光の乳母で、当時権勢並びなき春日局が正就に鳥居成次の娘と縁組みするように持ちかけ、正就は直時との縁組みを破談した。仲人としての面目が丸潰れとなったことを恨んだ信満は、寛永5年(1628年)8月10日、登城した江戸城西の丸廊下で行き会った正就に対し「武士に二言は無い」と叫んで脇差で斬りつけ、正就は殺害された。番士の青木義精が信満を羽交い締めにして取り押さえたが、信満は脇差を自分の腹に刺し貫いた。脇差は羽交い締めにした義精にまで達し、結果、正就と信満、それに巻き添えを食った義精が絶命した。 井上家はお咎めなしで正利への相続が認められた。豊島家は老中酒井忠勝の配慮により信満の嫡子・継重の切腹と御家断絶の処分のみが下り、他の一族への連座はなかった。島田直時はこの事件への責任を感じて自害した。 墓所は正利が父のために建立した静岡県掛川市の本源寺。次男の井上正義は5千石を領する大身旗本となり、その子の正晴の次男が、井上正長の養嫡子・正矩である。
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寛文9年(1669年)6月、父の隠居により家督を継いで笠間藩主となる。このとき、弟の井上正信に新田2000石,井上正興に1000石を分与している。9月に奏者番に任じられたが、延宝2年(1674年)6月に奏者番の任務において失態があったため、延宝3年(1675年)4月まで蟄居を命じられている。 天和3年(1683年)江戸城三の丸の修理手伝いを命じられる。貞享2年(1685年)から翌年まで、越後騒動により改易された越後高田藩の高田城の在番を信濃飯田藩主・堀親貞と共に務めた。在番中に堀が死去したため溝口重雄と交替している。 元禄5年(1692年)11月12日に美濃郡上郡・越前大野郡に移封された(美濃郡上藩)。このとき、財政上の理由から家臣団をリストラしている。元禄6年(1693年)9月2日、家督を次男の正岑に譲って隠居した。元禄13年(1701年)12月16日に死去、享年71。
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