清和源氏

G521:井上頼季  源 経基 ― 源 頼信 ― 井上頼季 ― 高梨盛光 G526:高梨盛光

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高梨朝定 高梨高信

 治承・寿永の乱において、父・高梨忠直は木曾義仲に従って討ち死にしたが、朝定自身は生き残った。建久年間(1190年頃)、源頼朝に参じて所領を安堵された。この頃は東条荘山田郷・北高梨周辺を支配していた。このとき、ほかの井上一族も共に鎌倉幕府へ参じている。
 高梨氏は時代が降るにつれて領土を北方へと拡大していくが、その基礎は祖父である高梨判官忠光から朝定に至る過程で築かれたといえる。

 治承・寿永の乱において従兄弟である高梨忠直らと共に、源義仲傘下に入る。これは中原氏を介した婚姻関係によるもので、当時は女系血縁が比較的重要であったことがわかる。越後国の城助職率いる平家方の軍を破るなど戦功を挙げるが、寿永2年(1183年)、備中国水島の戦いで平重衡,教経,知盛らと戦って敗死した。この戦で足利義清,義長兄弟や外戚の海野幸広も討たれている。なお、同輩の高梨忠直は京都の六条河原で刑死した。
高梨経頼 高梨朝秀
 南北朝時代には村上氏と共に北朝方に属し、正平6年/観応2年(1351年)6月に小笠原為経,小笠原光宗らと直義党の諏訪直頼の代官祢津宗貞と野辺原で戦い、8月には富部河原,善光寺,米子城(須坂市米子)で戦った。また守護の斯波義種に反抗して元中4年/嘉慶元年(1387年)善光寺に村上頼国,小笠原清順,長沼太郎らと挙兵し5月に平柴(長野市安茂里)の守護所を攻めて漆田原(長野市中御所)で戦い、8月には守護代の二宮氏泰が篭城する横山城を攻め落とし、続いて生仁城(千曲市雨宮)も攻めた。北信濃の南朝方香坂心覚との抗争にも高梨五郎,高梨時綱らの名前が出てくる。  応永7年(1400年)に信濃守護職・小笠原長秀との間で行われた大塔合戦では、高梨氏や井上一族など北信濃衆は500騎を動員しており、この数は信濃国人衆の筆頭(信濃惣大将)である村上氏と同数で、東信濃の名族海野氏の300騎を上回る。応永10年(1403年)に細川慈忠が守護代として入国した際には村上氏や大井氏,井上氏らが従わず段の原や生仁城で戦ったものの敗走し、翌年12月には高梨左馬助朝秀とも合戦となった。南北朝時代に善光寺平北部地域一帯から越後の一部にまで及ぶ勢力拡大に成功した。室町時代には、高梨惣領家と山田高梨・中村高梨・江部高梨を併せて高梨四家と呼ばれていたと記されている。
高梨政高 高梨政盛

 室町幕府8代将軍・足利義政より偏諱を受けて政高と名乗る。長禄3年(1460年)7月、父・教秀が没したため当主となった。この頃の室町幕府は、信濃北半を越後守護・上杉房定に兼任させ、信濃南半守護としては小笠原光康を任じた。当時の幕府は享徳の乱を起こした古河公方・足利成氏と対立関係にあり、成氏と結んでいた高梨政高も討伐目標の一人であった。
 寛正4年(1463年)、幕府方は政高を討つため、上杉右馬頭を大将として高梨領に攻め込ませた。政高率いる高梨軍はこれを高井郡高橋で迎え撃った。高梨軍は寡兵にも拘らず勝利し、この際に右馬頭を討ちとったとも云われている。政高はこの戦で、上杉氏に味方した新野朝安や大熊高家らの土豪の領地を手中にし、高梨氏の領土は広大になっていった。     
 応仁2年(1468年)死去。

 父と同じく8代将軍・足利義政より偏諱を受け、政盛と名乗る。明応4年(1495年)に善光寺を巡って村上政清との間で争いとなって同寺を焼失させた。この際に政盛は子・澄頼と共に善光寺の本尊を本拠地に持ち帰ったとされている。永正4年(1507年)、外戚である長尾為景が上条定実を擁して上杉房能に謀反を起こした際(永正の乱)もこれに加担、共に房能を自刃に追い込み(天水越の戦い)、房能の実兄の関東管領・上杉顕定が為景征伐の軍を率いて越後国に侵攻した際も為景に同心し、永正7年(1510年)の長森原の戦いで顕定を自刃に追い込むなど、勝利に貢献した。
 その後も中野の旧領主である中野氏を滅ぼすなど勢力を拡大したが、永正10年(1513年)に死去。後を子・澄頼が継いだ。
 なお、長尾為景と政盛は34歳違いあり、外孫という説もあるが、むしろ甥である可能性が高い。

高梨政頼 高梨頼親

 全盛期を築いた祖父高梨政盛の死後、高梨氏は村上氏の攻勢や近隣の長沼島津氏や井上一族・須田氏ら上杉定実派との対立により一時逼塞状態に陥っていたが、高梨政頼の代には長尾為景の援助を受けたこともあり、上杉派の豪族と和解あるいは滅ぼすことに成功した。そして、武田氏の信濃侵攻に対して村上氏と和睦する。
 村上氏が敗れた後も他の北信濃国人衆と共に武田氏に抵抗を続けるが、弘治2年(1556年)に葛山城を落とした武田軍は、ついに高梨氏の本拠地中野に迫る状況となる。この時は更に北に位置する志久見郷の市川氏も武田に応じる事態となり、高梨氏は挟撃の危機を迎える。弘治3年(1557年)に救援のため長尾景虎(のち上杉政虎)が信濃に入り(第三次川中島の戦い)辛うじて窮地を脱する。
 しかし、第四次川中島の戦いに先立つ永禄2年(1559年)3月、武田方の高坂昌信の攻撃により中野城は陥落。根拠地を追われた政頼は飯山城に後退し、長尾家(翌年には上杉に改姓)への依存を強めることになる。
 永禄4年(1561年)に政虎(謙信)が関東に侵攻して小田原の北条氏を攻めた時には飯山城に残っていたと思われ、同年9月の第四次川中島の戦いに参陣して子の秀政・頼親らと共に活躍するが、旧領復活は成らなかった。
 晩年については良くわかっておらず、第四次川中島の戦い以前に没していたとする説もある。

 父の政頼の晩年が不明なため、頼親が家督を継いだ時期も不明であるが、少なくとも高梨家が飯山城に移った後だと思われる。また、第四次川中島の戦いに参加したことは記録に残されている。
 謙信死後に勃発した二人の養子上杉景虎と上杉景勝の跡目争い(御館の乱)では、頼親は景勝方に属し事無きを得た。そして、武田氏を滅ぼした織田信長が本能寺の変で横死を遂げ、信濃全土を含む武田旧領が上杉・徳川・北条の草刈場と化した天正壬午の乱により、北信濃は上杉氏の支配下となり、頼親は旧領中野郷を回復することとなる。
 しかし、父の政頼が家督を継いだ当時は独立した国人領主であった高梨氏も頼親の代には上杉家の家臣となっており、慶長2年、斉藤景信や柿崎憲家らとともに、突然に改易処分となった。その後の頼親の動静ははっきりせず、会津移封に従ったのかどうかは実際不明である。
 その後、関ヶ原の戦いにより上杉家は米沢藩30万石に減封され、景勝の後を継いだ定勝の代に、逼塞中であった頼親は再び召抱えられ、高梨家は再興された。以後、頼親流高梨氏は米沢藩士として江戸時代を生き抜き、明治維新まで藩士として続いた。

高梨内記

 幕末の松代藩家臣・河原綱徳は、その著書のなかで、内記を高梨政頼の子供か子孫とし、高梨政頼の娘(もしくは妹)が真田信綱に嫁いだことを縁に真田家へ仕えたとしているが、信憑性は薄い。
 内記は傅役、息子の采女は乳兄弟、娘は側室ということもあり、真田信繁との関係は深かった。
 天正13年(1585年)の第一次上田合戦で戦功を立て、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以降は真田昌幸・信繁につき従い、九度山へ移った。慶長16年(1611年)に昌幸が死去した後ほとんどの家臣は九度山を去り旧領の上田に戻ったが、内記は息子とともに九度山に残り、信繁の大坂入城にも付き従った。最期は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣にて信繁と共に戦死したとみられている。
 孫で信繁三女の阿梅は大坂城落城に際して乱妨取りによって片倉重長に保護され、継室となっている。但し、阿梅の母は大谷吉継の娘で信繁正室の竹林院という説もあり、この場合は内記と阿梅との間に血縁関係は無いことになる。

 

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