平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。厚東氏7代当主。後に剃髪し、念西と号した。長門国厚狭郡郡司。厚東左衛門太夫。源平争乱以前の長門守護職・押領使であったといわれる。 『源平盛衰記』によれば、源平合戦においては平氏に味方し、後に源氏に属したという。寿永3年(1184年)1月(旧暦)の一ノ谷の戦いに際し、諸国から摂津国一ノ谷の陣に馳せ参じた「平家年来伺候人」の中に見える「厚東入道武道」なる人名はこの武光であるとされている。しかし、平氏が衰勢に傾きつつあった文治元年(1185年)以降には、長門・周防の他の多くの諸族に同じく厚東氏も源氏になびいたとされる(壇ノ浦の戦いで長府串崎の船頭衆を斡旋するなど厚東氏は源氏に協力したという)。 子の武景は鎌倉幕府の御家人であったと考えられているが、武光の代で御家人になったかは定かではない。正確な没年は不明である。 後の厚東氏累代の居城・霜降城を本拠である棚井に創築した。
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鎌倉末期、長門探題北条時直の配下に所属していた。元弘2年/正慶元年(1332年)9月、元弘の乱において、北条高時の命を受けて大内弘幸,熊谷直経ら西国勢とともに上洛した。 元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月(3月)、帰洛を目指す北条時直に属して海路東上したが備後国付近で村上水軍に行く手を阻まれて伊予国へ向かった。同3月12日(1333年4月26日)伊予国三居津に上陸し翌日には星岡平井城の土居通増を攻撃したが敗れて長門国に退却した。その後も高津入道道性(長幸)の反幕軍の攻撃に対して長門探題の北条氏の手勢として抗戦したが中途で道性側に返忠し、武実・武村父子は他の返忠勢とともに長門探題を攻めた。北条時直は劣勢を挽回できず長門探題から逃亡した。その返忠の功は建武政権に評価されて、武実は建武元年5月14日(1334年6月16日)に長門国守護に任命されて長門国府守護館に入った。この時、子の武村も豊前国企救郡を恩賞に与えられた。 建武2年7月(1335年8月)の中先代の乱への出兵中に変じて起こした足利尊氏の反乱に子の厚東武村が鎮圧軍として新田義貞側に参陣したが、新田軍は箱根・竹ノ下の戦いに敗れ去った。その後、京都から一時敗走した足利尊氏が九州に西下すると今度は厚東武実が大内長広ら周防・長門の武士とともに尊氏側に味方した。尊氏が九州平定を成し遂げると武実は用船を調達するなど尊氏の東上に協力し、また足利直義軍に従って陸路を進軍した。更に延元元年/建武3年9月(1336年10月)には石見国に出征して石見国守護上野頼兼に助勢するなど南朝軍相手に歴戦した。 貞和3年(1347年)末から翌・正平3年/貞和4年1月まで河内国の東条・四条畷と転戦していた武実は発病し、同年3月5日(1348年4月4日)には守護職を子の武村に譲った。同11月9日(11月30日)京都にて病没した。葬地は京都棚井の浄名寺。
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