甲賀破議によって所領を失った大原氏は一族離散となった。このとき、大原一族の篠山監物資忠は相模に流浪、資忠の子景近は田堵野に蟄居した。その後、慶長年中(1596~)に至って篠山景春が家康に召出され、近隣十郷の代官に取り立てられた。こうして、大原篠山氏はささやかながら息を吹き返すことができたのであった。
慶長5年(1600年)6月、家康は上杉景勝を討つため出陣、近江国石部に宿をとった。そこへ、水口城主で五奉行の一人長束正家から、朝餉の招待をしたいとの申し入れが届き、家康は馳走になる旨を返答した。長束正家は石田三成と結んで家康の謀殺を企てており、それを察知した篠山景春が家康に通報、家康は夜中に宿を発すると水口城下を無事通過した。正家は陰謀を否定したが、家康は信じず、景春に褒美として「腰物」を与えると東国へと下っていった。
それから1ヶ月後の7月、石田三成が家康打倒の兵を挙げ、家康の老臣鳥居元忠が守る伏見城を攻撃した。この伏見城の戦いに、篠山景春,景尚父子をはじめ多くの甲賀武士が籠城、激戦のすえにことごとく戦死した。東国から兵を返した家康は関ヶ原において石田方と決戦、勝利をえると、伏見城で戦死した景春の二男資盛を召出し鳥居野を安堵した。かくして、景春は家康から受けた恩義に対しみずからの命をもって報い、近世へ家を全うしたのである。
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中村氏は近江国甲賀郡に繁衍した伴四党(大原・上野・伴・多喜)の流れという説がある。近江伴氏は、大納言伴善男の子孫という大伴姓富永氏の一族で、伴家継が多喜に住して多喜を名乗った。室町時代、六角高頼に属した多喜勘八郎俊兼は、長享の乱(1487)に活躍して甲賀二十一家の一に数えられた。多喜氏系図によれば、俊兼の孫馬杉秀信の子孫作がはじめて中村を名乗り、その子が中村一氏となっている。
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