<神皇系氏族>天神系

OT14:伴 清助
 大伴武日 ― 大伴 咋 ― 伴 清助 ― 富永資隆
OT15:富永資隆


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富永直郷
富永資直
 建武年間、富永直郷は足利尊氏の命を受けて野田館に入り、設楽荘の荘司になったことから同荘は富永荘とも呼ばれるようになった。
 建武2年(1335年)、直郷の弟資直は足利尊氏の九州落ちに従った。尊氏と九州の南朝方菊池氏とが戦った多々良浜の合戦では、足利軍に数倍する大軍を擁した菊池軍に対して謀り事をめぐらし、一族の高兼,兼弘,資家らを率い、菊池方の旗を用い敵方を欺くなどして奮戦、尊氏の勝利に大きく尽くした。尊氏は資直の功に感じて「二つ引両」の紋を賜った。これより富永氏は自家の紋「木瓜」と拝領した「二つ引両」を合わせて「木瓜に二つ引両」を家紋にしたという。
富永忠安
富永忠元
 松平信定に追われた松平広忠に味方し、天文5年(1536年)9月10日、広忠を室城に迎え入れる。しかし、信定の軍勢に攻撃されたため、閏10月7日、室城を自焼し広忠は今橋へ移っている。
 『西尾私史』によれば、永禄の頃、忠安は領地である設楽郡野田の館に住んでいたが、吉良氏没落後の永禄7年(1564年)3月に鵜ヶ池に移り住み、永禄9年(1566年)8月10日に没したという。一方、『岡崎領主古記』(岩瀬文庫蔵)によれば、天文8年(1539年)、吉良持広は織田氏と結び今川義元と断交した。これに対し、持広の弟・荒川義広は、義元に味方し、今川軍を居城である荒川城に入れたため、城近くの荒川山付近で度々合戦となった。そして8月2日の合戦で、持広と忠安は揃って戦死したという。富永氏の墓がある大通院の過去帳にも、富永一族が同日荒川山で戦死したことが記されている。
 吉良義昭の家老。東条吉良氏の譜代の家臣であり代々室城主を務める。
 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い後に起きた松平家康との一連の抗争で度々功名を立てる。翌4年(1561年)4月15日の善明堤の戦いでは囮部隊として上野城を攻める。室城の留守部隊は松平好景勢の退路を遮断、義昭の本隊と挟み撃ちにして壊滅させている。合戦後、東条城へ入城。味方の西尾城が落ち、東条城が包囲されると出戦を主張。9月13日、手勢を率いて東条城の西方、藤波畷に出撃、本多広孝,酒井正親らの部隊と戦い戦死した(藤波畷の戦い)。享年25。
 『三河物語』によれば、戦死の報を受けて敵味方とも「伴五郎が死んだら落城は近い」と言い合ったという。後年、戦死地に伴五郎地蔵が建てられ、眼病に効くと伝えられた。