G132:土岐光衡 | 源 経基 ― 源 満仲 ― 源 頼光 ― 源 国房 ― 土岐光衡 ― 妻木弘定 | G144:妻木弘定 | ● |
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妻木煕子 | 妻木貞徳 |
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明智光秀の妻となり夫婦仲は非常に良かったとされる。結婚直前に疱瘡にかかり、左頬にその跡が残ってしまった煕子を光秀は気にせずに迎えた。道三の嫡男である斎藤義龍と対立し、明智城を落とされて浪人した光秀は美濃から越前に移り、朝倉義景に仕えることになる。生活が苦しい中、連歌会の催しを光秀が担当することになった。酒宴の用意に苦労する光秀をみかねた煕子は、自分の黒髪を売ることで費用を工面したと伝わる。 |
元々は美濃斎藤氏の家臣だったが織田信長による美濃侵攻にあたって織田家臣に転じたものと思われる。織田家中では信長の馬廻を務めた。 |
妻木頼忠 | 妻木頼次 |
天正10年(1582年)本能寺の変で父の貞徳が隠居したため、頼忠が妻木城を継ぐことになった。その頃森長可が可児郡,加茂郡内の反抗する勢力の掃討を開始し、頼忠は当初抵抗したが、勝てる見込みがなく森長可の家臣になった。 |
承応2年12月22日(1654年2月7日)に家督相続。父頼利の存命中におこった兄弟不和(妻木騒動)により、次男兵九郎幸広に大富村500石を分け与え、頼次は7000石を知行する。 |
妻木頼保 | 妻木頼黄 |
江戸に生まれる。徳川家光に仕え、使番,目付代と歴任した。この間高遠城の受け取り役などを務めた。元禄9年4月10日に東大寺大仏殿再建の調整役の任を負い奈良奉行に就任した。東大寺の公慶は大仏殿を創建当時の十一間を希望していたが、幕府は財政難から七間での進めたかった。父の重直が勘定奉行の時に二月堂の再建に尽力していることから適任とされた。着任後間もなく元禄9年7月25日に着工するが、完成の直前宝永4年に奈良で68歳で没した。嫡男の頼隆が跡を継いだ。 |
1859年、幕臣旗本・妻木源三郎頼功の長男として江戸に生まれる。父の頼功は、1862年長崎表立合御用として赴任するが現地で没した為、3歳で12代当主となった。明治9年(1876年)家屋敷を売却し渡米するが、日本で学ぶよう諭され帰国。1878年、工部大学校造家学科(のちの東大建築学科)に入学、ジョサイア・コンドルに学ぶ。1882年、卒業1年前に中途退学しアメリカ留学。コーネル大学建築学科3年に編入、同大学で学士号を取得した。卒業ののちニューヨークのロバートソン事務所で修行し1885年帰国。 |
妻木頼矩 | |
甲府学問所学頭,目付,大目付等を歴任し、慶応4年(1868年)1月9日、徳川慶喜が大坂城を退去したのちの引渡し役を務めた。尾張藩・越前藩の立会いの上徳山藩・岩国藩兵に引渡したが、本丸御殿台所より火の手が上がり城は全焼してしまった。明治2年静岡藩権大参事となった。廃藩置県後は横浜毎日新聞初代主筆を務めた後に文部省,宮内省と歴任した後、帝室博物館で日本美術の調査にあたった。67歳で没した。 |