生後間もなく権祢宜に任じられ、毎年5月御神田行事に参列した。外祖父藤波氏経の寵愛を受け、遷宮の記録,神宮の有職故実,伊勢流祓書、親友大中臣伊忠から神道書、道祥(荒木田匡興)・春瑜・春職等の僧侶から『日本書紀』、両部神道書を受容した。 粟野家から管領細川京兆家御師職を譲り受け、文明16年(1484年)細川政元の内宮参拝に奉仕したが、後に山田三方三日市庭大夫・安富某・秋庭某に職を奪われた。 文明10年(1478年)父守秀が死去し、本来ならば喪に服さなければならないところ、外祖父氏経の一祢宜としての特例を利用し、氏経猶子として経晨の名義でその手扶祢宜に任命され、父の欠員として祢宜に就任した。 明応4年(1495年)8月8日五十鈴川が氾濫し、兄守武と屋敷ごと楠部郷まで流されたが、一命を取り留めた。永正2年(1505年)12月24日の大火の際には、守武と境内に駆け付け、御神体を五十鈴川端に避難させた。永正9年(1512年)11月19日の火事では正殿の護衛に当たった。 永正13年(1516年)11月12日荒木田守則が死去し、一祢宜(長官祢宜)に就任したが、館郷・岡田郷衆に約束していた人事を履行できなくなったことで11月16日切腹し、翌日死去した。「神路山の奧の翁絶、天照大神今日迄」との血書を書き遺したが、意味は判然としない。在職期間の短さから「六日長官」と揶揄された。
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山崎宗鑑とともに俳諧の祖とも言われている。通称は中川平太夫と言った。77歳で病没。 1541年(天文10年)一禰宜となると当時流行していた連歌を三条西実隆に師事し、宗祇・宗長と交流があった。「新撰菟玖波集」に入集1句をはじめ、「法楽発句集」(1508年/永正5年)などの連歌集、「独吟百韻」(1530年/享禄3年)、「守武千句」(1540年/天文9年)などの俳諧集、教訓歌集「世中百首」(1525年/大永5年)などを残した。
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