壬申の乱では舎人として大海人皇子に仕えたと考えられており、大海人皇子が挙兵を決断したとき、君手は吉野にいた皇子のそばにいた。皇子自身が行動をおこす2日前の6月22日に、和珥部君手は村国男依,身毛広と3人で美濃に先行するよう命じられた。彼らの任務は、安八磨郡の湯沐令多品治に連絡し、まずこの郡を挙兵させることであった。彼らは無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。 大海人皇子は美濃に入り、二手に分けたそれぞれ数万の軍勢を7月2日に近江国と倭(大和国)の2方面に送り出した。和珥部君手は、村国男依,書根麻呂,胆香瓦安倍と共に近江行きの軍を率いた。男依らの軍は連戦連勝して進撃し、22日には瀬田で敵の最後の防衛線を破った。大友皇子が翌日自殺したことで、壬申の乱は終わった。君手は後にこの戦争を回顧して「和邇部臣君手記」を書いた。 『日本書紀』には12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山位以上を与えたとする記事があるので、君手が受けた位もこれ以上ではあったと考えられる。また、80戸の封を与えられた。 文武天皇元年(697年)9月9日に勤大壱から直広壱に昇叙された。これを伝える『続日本紀』の記事は「壬申の功臣」としか理由を伝えないが、他の例で壬申の功臣への賜位記事は死亡時の追贈であるから、この場合も同じと考えられる。
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