清和源氏

G485:奈胡義行  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義光 ― 源 義清 ― 奈胡義行 ― 米倉信継 G487:米倉信継

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米倉昌尹 米倉昌言
 正保2年(1645年)、3代将軍・徳川家光に拝謁し、承応3年(1654年)に御小姓となる。貞享元年(1684年)7月19日に600石に登った米倉家の家督を継ぐ。
 貞享2年(1685年)8月12日、御徒士頭となり、貞享3年(1686年)9月18日に目付となる。貞享4年(1687年)2月26日に番頭となり、元禄3年(1690年)3月27日に武蔵国内で500石を加増され、同年12月18日に叙任する。元禄5年(1692年)1月11日、上野国内で1000石を加増され、元禄7年(1694年)1月7日に武蔵国内で1000石を加増される。同年12月15日にも武蔵国内で1000石加増される。元禄9年(1696年)3月28日に若年寄に任じられ、それにより1万石を与えられたことで大名として諸侯に列し、武蔵金沢藩主となる。
 元禄12年(1699年)1月にも5000石を加増され、下野皆川に移封されて1万5000石となるが、同年7月12日死去。

 天保8年(1837年)3月9日、第7代藩主・昌寿の六男として生まれる。安政5年(1858年)5月、将軍・徳川家定に拝謁し6月に叙任する。万延元年(1860年)6月24日、父が病気を理由に隠居したため、その後を継いで藩主となる。幕末の動乱期の中では佐幕派として行動し、田安門番や日光祭礼奉行を務めた後の文久3年(1863年)2月に大坂加番となる。元治元年(1864年)10月には大番頭となり、同年の第1次長州征伐にも参加した。慶応2年(1866年)の第2次長州征伐にも参加している。
 慶応3年(1867年)末、横須賀製鉄所の警護を務めたが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に協力した。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で藩知事となり、金沢藩を六浦藩と改称する。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官となり、後に子爵となった。明治42年(1909年)2月27日に死去。享年73。