清和源氏

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南部実長 南部実継

南部師行

 父・光行から甲斐国巨摩郡飯野御牧内にある波木井郷を割譲され地頭職を兼ねた。嘉禎4年(1238年)、4代将軍・藤原頼経が上洛した際には、兄・実光と共に随兵を務めた。文永6年(1269年)頃、鎌倉での辻説法を聞いて深く感銘し日蓮に帰依した。文永11年(1274年)には、流罪を解かれ佐渡国から鎌倉に戻った日蓮を波木井郷へ招き入れ、まもなく領内の身延山中に草庵を造営し外護の任にあたった。弘安4年(1281年)、十間四面の堂宇を建立寄進し「妙法華院久遠寺」と命名、また実長も出家し法寂院日円と号した。弘安5年(1282年)9月、病身の日蓮は病気療養のため常陸の湯に向かう途中現在の東京都大田区池上に着くと病体が更に悪化し、実長への9ヶ年の感謝と死期の近いことを知らせる最後の手紙を送っている。10月13日朝、61歳の生涯を閉じた日蓮の遺言通り遺骨を身延の澤に埋葬し実長を中心に六老僧等で護った。
 後代、長男・実継の家系は陸奥国を地盤とする八戸氏(根城南部氏)として存続し、本拠地である甲斐国波木井郷は四男(一説には長男とも)長義の家系が継承した。

 元弘元年(1331年)に元弘の変が起こるが、この時既に70歳を越えていた実継はこれに与し、護良親王,尊良親王に随従して赤坂城に篭城した。
 朝廷方は奮戦したが、幕府の大軍に攻められて落城、実継は幕府軍に捕縛され、元弘2年(1332年)12月13日、六条河原で倒幕に荷担した他の武士達と共に斬首された。
 実継が元弘の変に荷担した動機は、北条氏と癒着した三戸南部氏との対立といった幕府への不満の他に、その謹厳で一徹な性格や、父・実長の代からが帰依し鎌倉幕府と対立した日蓮の思想の影響によるものであり、同じく幕府に反撥し、倒幕を企図する後醍醐に強いシンパシーを抱いたからだと推測されている。
 実継の死は北畠顕家に仕えて活躍した根城南部氏の師行を始めとした南部氏が南朝方に協力し、恪勤する契機にもなった。波木井南部氏の一族は皆反骨精神の強い人物であったと言われており、実継もまた父実長の気質を受け継いだ人物であった。

 元々は甲斐国に所領を持っていた。南部氏の庶流である波木井南部氏を継承していた。元弘3年/正慶2年(1333年)、新田義貞の鎌倉攻めの際、兄時長,弟政長と共に義貞の軍勢に加わって武勲を立てた。後醍醐天皇の建武の新政が開始されると、南部一族も武者所など枢要な役職に編成された。同年10月、陸奥守北畠顕家に従って後醍醐天皇の皇子の義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城に下向した。師行は弟政長,結城宗広,親朝親子,伊達行朝,長井貞宗,伊賀貞光らと共に随行し、北畠氏を頂点とする統治機構、所謂「奥州小幕府」の一員となった。
 師行は顕家のもと、北条残党の鎮圧に貢献した。建武2年(1335年)、足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、顕家は尊氏を追討するために義良親王と共に陸奥の地を離れた。翌年、顕家と義良親王が再び陸奥に下向すると顕家に随行することを決め、政長と信政に、安易に節操を曲げてはならないと遺言を残している。
 延元3年/建武5年(1338年)5月22日の和泉国石津での石津の戦いで北朝方の高師直の軍に敗北し、師行は顕家と共に戦死した。
 明治29年(1896年)、師行は南朝への忠義を讃えられて正五位を追贈され、遠野南部氏(根城南部氏の後身)の当主の南部行義に男爵を授けられている。