<藤原氏>式家

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藤原百川 藤原緒嗣 藤原家緒

 天平宝字3年(759年)正六位上から従五位下に昇叙。
  称徳天皇代にあって、恵美押勝の乱以後後退していた藤原氏をその才覚により支え、権力の再興を果たす。神護景雲3年(769年)の宇佐八幡宮神託事件においても、道鏡への皇位継承阻止派として藤原永手らとともに雄田麻呂の暗躍があったといわれる。
  神護景雲4年(770年)称徳天皇が皇嗣を定めないまま崩御した際、従兄弟の左大臣藤原永手や兄の参議藤原良継とともに、反対する右大臣吉備真備を出し抜くなど、白壁王(のち光仁天皇)擁立に労を取ったとされる。ただし、この時期に雄田麻呂が暗躍したとする所説は、桓武立太子の事情が誤って語られたものであるとした河内祥輔の説が現在では広く支持されている。
  白壁王立太子後右大弁に任官、光仁天皇即位に伴い正四位下に叙せられ、翌宝亀2年(771年)には大宰帥・参議に任ぜられる等、要務を勤めることとなった。この頃「百川」と改名。光仁天皇の百川に対する信頼は非常に篤く、その腹心として事を委ねられ、内外の政務に関する重要な事項について関知しないものはなかったという。
  宝亀3年(772年)井上内親王(称徳天皇の妹)が天皇に対する呪詛疑惑を理由として皇后を廃され、光仁天皇と井上内親王との間の子である他戸親王も連座して廃太子となり、女系としての天武系も途絶することとなる。翌宝亀4年(773年)、建議により皇太子に山部親王(後の桓武天皇)を立てる。これら一連の事件は山部親王の才能を見込んだ百川の暗躍によるものとされている。母親が百済渡来人系高野新笠である山部親王にとっては、望外であったと思われ、親王の百川に対する信任はすこぶる篤かった。
  宝亀10年(779年)正月従三位に叙せられるが、同年7月山部親王の即位を見ることなく、従三位式部卿兼中衛大将で没。即日従二位の位階を贈られた。弘仁14年(823年)淳和天皇(母は百川の子・旅子)即位に伴い、天皇の外祖父として正一位・太政大臣を追贈された。
  幼少より才能にあふれ度量があった。要職を歴任したが、各官職を勤勉真面目に勤め上げたという。

 父の早逝は本来であれば緒嗣の出世にとっては致命的な影響を及ぼすところであった。しかしながら、百川の生前の働きに感謝する桓武天皇によって常に気を掛けられており、延暦7年(788年)桓武天皇自らの主催によって宮中で緒嗣の元服の儀が行われ、天皇の手による加冠と剣の賜与、正六位上・内舎人への叙任、封戸150戸の賜与という厚遇を受けた。
  延暦10年(791年)には従五位下に叙せられて一人前の貴族として扱われる事になった。その後延暦16年(797年)24歳で正五位下に昇進すると、わずか2日後には従四位下へ昇叙と事実上4階級昇進し、衛門督に任ぜられるなど、これまでの昇進の記録を次々と破る結果を残す。ついには、延暦21年(802年)29歳の若さで父・百川と同じ参議に昇進し公卿に列した。これは生前に百川へ十分報いる事の出来なかった桓武天皇からの恩返しであると同時に、緒嗣の才能に期待をかけた人事である。だが、緒嗣はその3年後に天皇の思いもよらなかった形でその期待に応えることになる。
  延暦24年(805年)12月7日(旧暦)、緒嗣と同僚の参議・菅野真道は桓武天皇より現在の政治の問題点について質問を受けた。緒嗣は開口一番「方今天下の苦しむ所は、軍事と造作なり。此の両事を停むれば百姓安んぜん(今、天下の人々が苦しんでいるのは、蝦夷平定と平安京の建設です。この二つを止めればみんな安心します)」と述べた。長年天皇に仕え、身分の低い学者から抜擢を受けた老齢の真道は天皇の意向を汲んで必死に反論をしたものの、ついに天皇は緒嗣の主張を受け入れてライフワークとも呼ぶべき事業である、蝦夷平定と平安京の建設の中止を宣言した(「徳政論争」)。なお、桓武天皇は翌年に崩御した。
  平城天皇の時代に入ると、新帝のもとで荒廃する地方政治の再建を目的として、参議・藤原園人と中心となって観察使制度を設けて、地方政治の運営を中央政府の高官が直接監視する新制度を導入した。天皇と緒嗣らの意気込みは相当なもので、大同2年(807年)には参議の官職自体を廃止して、参議クラスの高官達を観察使専任にするほどであった。ところが、大同3年(808年)緒嗣は中納言・坂上田村麻呂の後任として、陸奥出羽按察使を兼務して東北地方への赴任を命じられる。緒嗣の力量を買われた人選ではあったが、同職の最大の責務である蝦夷平定に反対した前歴があること、地方官の経験に乏しく兵法にも疎く体も丈夫ではない事を理由に3度に亘って辞表を提出した。だが、辞意が認められることはなく、翌大同4年(809年)には現地に赴いた。だが、あくまで自分の所信を貫いた緒嗣は在任中一度も軍隊を動かす事はなく、現地の役人や兵士・民衆の保護政策に専念した。
  1年半後、参議・文室綿麻呂に陸奥出羽按察使の職を譲って都に戻ると、平城天皇の退位と続いて発生した薬子の変により情勢は一変していた。緒嗣とは何ら関係のない事件であり自身も鎮圧側に回ったが、緒嗣の従兄弟・故藤原種継の子である尚侍・薬子と参議・仲成の兄弟が事件の首謀者として死亡したことで、緒嗣が属する藤原式家の政治的地位の低下を招いた。その上、この混乱の中で観察使制度が廃止され参議が復活したこと(緒嗣は参議に復帰)で緒嗣主導の改革政策は事実上挫折した。さらに、1歳年下である藤原北家の藤原冬嗣が新設された蔵人頭に任命されて政治の中枢に立ち、弘仁5年(814年)には従三位に昇進して官位でも緒嗣を追い抜き、北家が台頭していくこととなる。その後の緒嗣は失意と病気のために度々引退を申し出たものの許されなかった。昇進面でも冬嗣の後塵を拝し続けるものの、弘仁8年(817年)中納言、弘仁12年(821年)大納言と順調に昇進、この間の弘仁9年(818年)には右大臣・藤原園人と中納言・藤原葛野麻呂の死去により、以降太政官において首班である冬嗣に次ぐ地位を占めた。また、『新撰姓氏録』や『日本後紀』の編纂事業に参画。特に後者については、編纂の全過程に緒嗣が関ったと言われており、彼の元に優れた文才と批判精神を持つ人たちが集められて制作された。また、外交的な意味が薄れて半ば商用と化し、通過先の住民を煩わせるだけとなった渤海からの使者の制限を提案している。
  弘仁14年(823年)甥(姉・旅子の子)の大伴親王が即位(淳和天皇)すると右大臣に任ぜられる。天長3年(826年)、冬嗣が没すると右大臣だった緒嗣は淳和天皇を助けて再び政治の中枢に立つものの病気がちで満足に政務が取れない日々が続いた。更に将来を期待していた長男家雄にも先立たれる。既に冬嗣の息子の長良・良房兄弟は政界の中心に台頭しつつあり、冬嗣にはその死後に更に差を付けられてしまうこととなる。
  嵯峨朝から仁明朝にかけては崇文の治と称えられるほどの安定した治世ではあったが、嵯峨上皇崩御後の承和9年(842年)に起こった承和の変によって、中納言・藤原吉野(緒嗣の従兄弟の子)が流刑になったのは式家には大きな痛手となった。承和10年(843年)正二位・左大臣の官に就いたまま病死。即日従一位の位階が贈られた。
  政務に通暁しており、「国の利害知りて奏せざることなし(常に国と民を思い、政治的な問題は必ず議題とした)」といわれた賢明で良心的な政治家であった。一方で、頑固で偏執的な性格であったとされる。そのために政治的にも孤立してしまう面があり、冬嗣・良房親子に苦汁をなめさせられることが多かったと言う。この父の姿を見て育った次男の春津は、父の死後に早々と引退をしてしまい、緒嗣の死後に式家が政治の中枢に立つ事は二度となかった。

 弘仁13年(822年)従六位上から従五位下に昇叙される。弘仁14年(823年)従兄弟に当たる淳和天皇の即位後、従五位上・右近衛少将に叙任。天長3年(826年)正五位下次いで従四位下と一挙に昇進し、左兵衛督に任ぜられる。天長8年(831年)蔵人頭・伊予守を兼ね、天長9年(832年)正月従四位上に叙せられるが、同年3月に没した。享年34。最終官位は左兵衛督従四位上。
  父・緒嗣の家風を受け継ぎ清廉な性格であった。典籍を非常によく学んだことに加え、歩射も得意とした。大臣として朝政に参画することを期待されたが、早逝したため果たせずに終わった。

藤原春津 藤原忠文 藤原緒業

 母は蔵垣人山(または企)の娘、妻は紀御依の娘。
  天長年間初頭に左近将監に任官。天長7年(830年)皇太后宮大進(皇太后は橘嘉智子)に転任、翌天長8年(831年)2月16日に淳和天皇が後宮で曲宴を開いた際、正六位上から従五位下に叙せられる。同年近江権介。2年後の天長10年(833年)に従五位上に昇叙。
 以後、備中権守を経て、承和5年12月20日(839年1月9日)に侍従に任じられる。承和9年7月25日(842年)に正五位下・右馬頭に叙任。翌年、父・緒嗣の辞表提出時に特に従四位下に叙せられる。その後、右兵衛督や刑部卿を歴任し、仁寿元年(851年)11月26日には従四位上に叙せられた。のち、天安元年(857年)但馬守、貞観元年(859年)備前守に任じられたが、現地に赴任することなく備前守在任中に平安京で死去した。
  姿形が美しく、心がけも上品であった。名門福貴の家柄に生まれ、兄の藤原家緒の死によって父・緒嗣の後継者となったが、出世や物欲に無関心で、馬を集めて観ることのみを楽しみとして、出仕しようとしなかった。文徳天皇は彼の隠遁ぶりを「南山の玄豹」と評した。『尊卑分脉』には彼を「日本第一富人名人也」と記している。また、父が建立していた観音寺を完成させたことでも知られている。

 内舎人,修理少進を経て、延喜4年(904年)従五位下に叙せられる。のち、左馬頭,左衛門権佐,右少将等武官を務める一方で、紀伊権介,播磨介,讃岐介と地方官を兼ねた。延長4年(926年)従四位下・摂津守に叙任されて以降、丹波守,大和守と畿内の国司及び修理大夫を経て、天慶2年(939年)に参議として公卿に列す。
  天慶3年(940年)関東で反乱を起した平将門を追討するため、右衛門督・征東大将軍に任じられ、68歳の高齢ながら将門追討の責任者となったが、忠文が関東に到着する前に将門は平貞盛,藤原秀郷らに討たれていた。翌天慶4年(941年)今度は瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友を追討するため征西大将軍に任ぜられている。
  天暦元年(947年)6月26日に薨去。享年75。没後、中納言正三位を贈られている。馬・鷹の名手であった。
  忠文は老齢を押して平将門の乱鎮圧のために東国へ向かったものの、東国到着の前に将門が討伐されてしまったために、大納言・藤原実頼が嘉賞に反対し、忠文は恩賞を得られなかった。忠文はこれに不満を持ち、辞任を申し出るが許されなかった。その後、天暦元年(947年)6月に忠文が没すると、同年10月に実頼の娘・述子(村上天皇の女御)が、11月には実頼の長男・敦敏が相次いで死去したために、忠文の怨霊が実頼の子孫に祟ったと噂されたという。このことから忠文は悪霊民部卿とも呼ばれ、その霊を慰めるため宇治に末多武利神社が創建された。

 父・百川は光仁・桓武両天皇を皇嗣に擁立した功臣であったことから、兄・藤原緒嗣とともに桓武天皇に信任されて順調に昇進する。延暦19年(800年)内舎人より抜擢され従五位下・侍従に叙任、延暦23年(804年)には正五位上に昇叙されている。またこの間、大学頭,左兵衛佐を歴任するとともに、常陸介,信濃介,信濃守などの地方官も兼官した。大同元年(806年)4月には兄・緒嗣とともに、故・桓武天皇より賜与された200戸の封戸を朝廷に返上しようとしたが、この封戸は桓武天皇が特別に賞して賜与したものであるとして、皇太子・安殿親王(のち平城天皇)は返上を許可しなかった。
  平城朝においては、兵部大輔,左京大夫,大和守を歴任し、大同3年(808年)従四位下に叙せられる。嵯峨朝では大同5年(810年)従四位上に叙せられたのち、近江守,兵部大輔,神祇伯,伊予権守を歴任する。しかし、伊予権守の任を終えて帰京後は朝廷への出仕をしなかった。
  弘仁14年(823年)淳和天皇が即位するとその外戚として正四位下に、天長3年(826年)には従三位に昇叙され公卿に列す。その後も官職に就くことはなく、承和9年(842年)高橋里の邸宅で没した。
  性格は素直で容姿や身のこなしが優れていた。また、射を好み琴歌も得意としていた。晩年は邸宅について顧みることがなく、門戸を修理することもなかったという。

 

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